見出し画像

聖書タイム:2020年6月

text by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳
クリスチャン新聞福音版に「こころの食卓」連載中
いのちのことば社」翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著

6月は、どういうわけか、たくさんの聖書の言葉が私の心に響いています。それはまるで、鳴り続ける教会の鐘のように、「さあ、みんな集まれ!」と呼びかけるかのようです。数ある中で、今回は2つの言葉について話したいと思います。

一つは旧約聖書ゼカリヤ書4章の言葉で、わかりやすいので英語で引用します。

「Not by might, nor by power, but by My Spirit」
「権力によらず、人の力によらず、私(神)の霊によって」

人は自分の力で家を盛り立てたり、教会のメンバーを増やそうと頑張ってしまったりしますが、聖書が教える方法は威勢を張らずに自然体で生きられる環境にも良い省エネ法。お金やメンバーの能力に頼っていては、何を成すこともできないのです。

この句の大文字英語「私の霊」とは神の霊、聖霊のことです。私たちの願いは聖霊が注がれない限り実現しません。聖霊はわかりやすく言えば神様の深い愛で、その愛を求め迎えると、私たちの狭い心が驚くほどに内側から広がり、思い込みが是正されます。そして敵対せず、対抗せず、自己主張せず、互いに尊重しあい、楽に生きていけるのです。

今月、私を突き動かしたもう一つの言葉は旧約聖書ヨエル書3章「若者は幻を見、老人は夢を見る」です。

幻も夢も聖霊を通して受けるものです。若い時の幻とは、神様にあって大志をいだくことで、心の中に膨らんでいく希望こそが、若者らしい生きる力となります。それは神様から自分だけに送られたギフトを探り、知り、そのギフトによって自分の歩みが支えられる生き方です。

一方、老人はどうでしょうか。年をとると寝てばかりいるから「夢を見る」のではありません。年をとると、体力的な面やすべてにおいて衰えていきますから失意のうちにワガママになったり、寂しさのあまり自己中心の意地悪バアさんになったり、ガミガミ雷親父になったりします。

でも、イエス様を自分の杖として、一歩一歩でも歩こうとする者には、聖霊の助けによって今まで見たことのないような夢が与えられ、その足取りが支えられます。

その夢とはどんなものでしょうか? 未だ見ぬ夢、見果てぬ夢、聖霊の恵みによって与えられるその夢は実にユニークで、その人の中で大きな希望として輝きます。人は若い時も年取ってからも希望が無いと生きていけないのです。神様が注いでくださる夢=希望を頼りに送る老後は楽しく心穏やかなものです。あなたも、あなたのために備えられている特別な幻や夢を掴みたいと思いませんか?

今、私が密かに思っていることは、年をとると、幻と夢の両方がみれるのではないか、という思いです。恵みに運ばれながら豊かに人生を全うしたいものです。