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天使の才能 下

5.天使と牛丼並盛

「図書館・図書館学」のNDC(日本十進分類法)は「010」。だから図書館関連の書籍は、図書館のフロアの一番隅っこに排架されることが多い。我がキャンパスの図書館では、おもに地下2階と地下3階の開架書庫の隅っこに並べられている。地下2階は日本語の教科書や文献が並び、地下3階は主にレファレンス資料や外国語の資料。マイさんのような学部2年生は、地下2階の書籍のお世話になるのだろう...
 ...あ、いた。
 地下2階の分類「010」の書棚を見つめる彼女。ボクの存在には気付いていない。その瞳の輝きに、この子は本当に本が好きなんだ、ということを改めて気づかされる。
 今日のマイさんの出で立ちは、白のポロシャツに少し色落ちしたインディゴブルーのルーズジーンズ。ぺたんこの黒いスニーカー、ウェリントンの眼鏡と、後ろで括った髪は変わらない。
 ボクはというと、「二週間に一回くらい、不定期」という学内でのサイクルを崩してもいいのだろうかと、などと変なことを考えて、声をかけられずにいた。

「あっ、タイさん。いらっしゃったんですか」
 ボクに気付いた彼女が、館内なので小声で言う。
「やあ...探し物?」とボクも小声で言う。
「勉強に疲れて、なんとなく眺めてました。タイさんは」
「午後一からゼミの仲間と次回の準備でディスカッションやって、その後論文の検索とかして、やはり疲れたからブラブラしてた」
「今日はバイトがあるんですよね」
「ああ、9時から」
 腕時計を見て彼女が言った。
「じゃあ、これからうちの駅前のアーケード街で牛丼食べるんで、ご一緒しませんか」と、囁くような声でマイさんが誘う。

 大手チェーンの牛丼並盛一杯が、学食のカレー大盛とほぼ同じ値段。食事について「学食カレー本位制」を採用するボクにとって、贅沢の範疇には入らない。
 マイさんの最寄り駅の改札から、アーケード街を5分ほど歩いたところにある牛丼店の、カウンターに二人並んで並盛を食べる。
「マイさんが牛丼が好物とは、意外だったなあ」
 食べ終わって水を飲みながらボクが言う。
「一人暮らしを始めてからです」
 彼女は、残り少ない汁の染みたご飯を、丼鉢の縁でお箸を器用に使って丁寧にまとめては、口に運んでいる。
「試しに入って食べてみたら結構美味しかったので、夕飯作ったり洗い物する元気がないとき来てます。月に2回くらいでしょうか」
「ボクは頻繁には来ないけれど、時々無性に食べたくなることがある。おかげさまでしばらく『牛丼欲求』に襲われなくてすみそうだ」

 ごちそうさま、と言って食べ終わった彼女。水を一口飲んで言う。
「タイさん、少しだけお時間よろしいですか?」
「10分くらいなら大丈夫だけど」
「じゃあ、手短に言います。この週末に、母親と会うことになりました」
 一度会おう、という話を以前からしていたところ、この週末土曜日に会わないか、という連絡がきて、待ち合わせの場所と時間を決めた。会う日が近づいて、だんだん緊張してきたのだという。
「もう8年以上会っていないし、ああいうことがあったので、どんな反応をしてしまうか、不安で...」と下を向いてマイさん。
「お父様には話したんだよね」
「はい。でも父は離婚の当事者ですし、誰か家族以外にお話しして、どう振舞うのがいいか聞きたかったんです...」と相変わらず下を向いて彼女が言う。
「じゃあ、ボクも手短に言うね。そのとき感じた気持ちをそのままに表したらいいんじゃない? 泣きたければ涙を流せばいいし。怒りたければ噛みついてやればいい」
「噛みつくんですか?」と言って、彼女はボクのほうへ向く。
「刑法に抵触しない程度にね」
 プラスチックのコップに残っていた水を飲み干すと、彼女が言う。
「ありがとうございます...気持ちが、少し楽になりました」
 相談に乗ってもらったからボクの分の牛丼代を出す、とマイさんは言った。けれど、ボクは固辞して自分の分を払った。

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 とは言ったものの、お母様と会ってマイさんがどうなっただろう、と気掛かりな土曜の夜を過ごし、翌日曜日、「キッチン・アンジュ」へと向かう。6月も末になっていた。
 いつも通り出迎えてくれる奥さん。寡黙なご主人も変わらない。
 マイさんも普段と変わらない。
 カウンター席の奥に並んで、2時から授業をする。初めの頃は当惑気味だった彼女も、だんだん要領を得てきたようで、質問内容からも、確実に知識を習得していることがわかる。ペースも当初の目論見通り。
 キリのいいところで、3時少し前に授業を終える。マイさんがご主人に本日のランチを注文する。彼女は、今日はビーフシチューのセット。ボクは変わらずサラダセットのサラダ、ライス大盛り。
 しばらく黙って食事。ボクは時々彼女のほうに目をやり、様子を窺う。昨夜のことを聞きたいのだけれど、彼女が話してくれるのを待つことにする。
 食事の半ばくらいから少しずつ会話が始まる。先ほどの授業に関して。7月に発表される芥川賞、直木賞について。

 二人ともほぼ食べ終わった頃、マイさんが昨夜のことを話し始める。
 副都心の駅近くのビルの上層階にある、日本料理店の前で待ち合わせ。彼女は約束の時間の少し前に行った。
「目印とか決めてなかったんです」と彼女。
「目印って『ピンクのブラウスを着ている』とか、『紀伊国屋書店のカバーをかけた本を持っている』とか?」
「そうです。まあ、いざとなったら電話番号もメアドもわかるから、連絡取りあえばいいかって」
「で、どうなったの?」
「約束の時間に、キャリアっぽい女性がやってきました。すぐに母だとわかりました」
 思い出すように少し間をおくと、ボクのほうに向いて彼女が続ける。
「会った瞬間、二人とも思わず笑い出したんです」
「どうして?」
「だって、眼鏡がわたしと同じウエリントン。しかも同じ鼈甲柄で色目も一緒。母が眼鏡をかけるようになったのは最近なんです。それなのに、わたしと全くおんなじ形、おんなじ色のフレームを選んだんですから。『なんやかんや言っても親子だねえ』って」
 そう言うと彼女は微笑んだ。
 日本料理店で食事をしながらお互い近況報告をして、また時々会おう、ということになったという。
「おかげさまで、涙を流したり、噛みついたりすることなく過ごすことができました」
「ボクのアドバイスは不要だったね」
「そんなことありません。お話を聞いてくださったおかげで、落ち着いて向き合うことができました。ありがとうございました。お礼に、今度こそは牛丼をご馳走させてください」
「ご馳走してくれるんだったら、その日本料理店がいいなあ」とボクがニコリと笑う。
「じゃあ、スポンサーが見つかったら、ということで」とマイさんもニコリ。

6.天使と作品たち

「好きな作家や作品に、のめり込んでしまうタイプなんです」とマイさん。
「だから、触れている作品の幅はそんなに広くないんです」
 7月第一週。梅雨も後半戦に入って、雨模様の日が続く。教授の「口頭試問」を終えたマイさんと、次の授業までの1時間ほどをカフェテリアで過ごす。
「じゃあ、いま『好きな作家を一人挙げよ』と言われて、すぐに思いつくのは?」
「ええと、小川洋子さんは前に言いましたよね...そうですね、森見登美彦さんかな」
 中学生のときに、市立図書館のティーンズコーナーで見つけた「ペンギン・ハイウェイ」を読んで、大好きになったという。それから「夜は短し歩けよ乙女」「四畳半神話大系」「太陽の塔」...という具合に読み進めていった。そのあたりは中学生にはいささかむさ苦しくない? ティーンズのコーナーに排架している図書館が結構あるんですよ。
「ペンギン・ハイウェイがアニメ映画化されて、公開後すぐに観に行きました。結局3回行ったかな? 今なら『大事な人と一緒に観たいDVD』の最右翼になるでしょうね」
「大事な人と一緒」という言葉に、少しどぎまぎする自分がいた。
「そう...森見というと、なんといっても京都だよね」
「鴨川デルタ、下鴨神社、木屋町、先斗町...実はわたし、かなり真剣に京都で学生生活を送ることを考えたんです」と少し身を乗り出してマイさんが言う。
「ボクも実は関西の大学を考えたことがある。森見の後輩になるのはさすがに高嶺の花だったけれど、その他にも国公立大学がいくつもあるからね」
「タイさんはどうして関西を考えたんですか?」
「『涼宮ハルヒ』の聖地巡礼がしたかった」
「それも素敵ですね」

 森見登美彦に話が戻る。前作「夜行」まではすんなりと読めたのだけれど、最新作の「熱帯」を途中から読めなくなっている。どうも乗り気がしないのだという。夏休みに帰省して読み進めてみるとのこと。
 そういえば、彼は作家デビュー後に国立国会図書館に採用されて、しばらく「二足の草鞋」だった。
「マイさん、国立国会図書館は?」
「実は...まだ行けてないんです」と恥ずかしそうにマイさん。
「春休みに同じ専攻に進む友達と一緒に行く約束をしたんですけど、当日高熱を出して...」
「それは残念。『知の殿堂』に行く前に、知恵熱が出ちゃった...おっと、ごめんなさい。失礼なことを」
「知恵熱か。ありですね。それから学期が始まって、まとめて時間のとれるとき、と考えているうちに、行く機会がないまま今日まで来ちゃいました」

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「記憶に間違いがなければ、たしか森見登美彦の作品の中に『図書館警察』ってでてきたよね」とボク。
「大学図書館利用者の延滞を摘発するという口実で、学内に幅広くネットワークを張っている裏組織ですね」
「あれって、有川浩の『図書館戦争』と関係しているのかな?」
「図書館警察」はたしかスティーヴン・キングの小説にあった。「図書館戦争」は「図書館の自由に関する宣言」がテーマの作品だから、関係ないのでは、とマイさん。
「マイさんは「図書館戦争」は読んだ?」
「構成もしっかりしていてテンポ感もあって、それなりに楽しみながら一気に読みました。けれど違和感を抱いて、その後のシリーズ作品は、まだ読めていません」
「キミが抱いた違和感って?」
「ずっとわからずにいたんです。それが『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を観てわかったんです」
「ボクも観に行った。圧倒的な映画だったけれど、それが『図書館戦争』とどういう関係が?」
 マイさんが言う。「ニューヨーク公共図書館」から受けたメッセージは、「知」こそが、民主主義社会の抱える様々な課題と戦う「武器」なんだということ。貧困、差別、教育の問題、デジタルディバイド、産業や文化をいかに振興するか...そんな「知」の砦である図書館の自由を守るのは、あくまで「知」の力によるべきであって、「武装」というのはどうも...
 いつもに増して雄弁なマイさん。いささか気圧された状態で、ボクはポツリポツリと話し始める。
「うん。なるほど...たしかに、そうかかもしれない、けれど...」
「おかしいでしょうか?」
「おかしくはないよ。ただ...いま言ったことは、あまり安易に人に話さないほうがいいね」とボクが声のトーンを落として言う。
「どうしてですか?」
「政治的な文脈が垣間見られるから。いまの世の中、政治的な言動を聞くだけで引く人が結構いる」とさらに声のトーンを落とす。
「...この話をしたのはタイさんが初めてですけれど」と同じく声のトーンを落としてマイさん。
「安心していいよ。ボクは気にしないから」と囁くようにボクが返す。

「有川浩さんの作品だと、『阪急電車』に出てくる『図書館カップル』のエピソードが好きです。図書館のシーンは少しだけれど、なんか愛おしくて。そういえば二人は最後に、同棲するんですよね」
「同棲」という言葉に今日二度目の動揺。いい年して情けない自分。
「ボクは読んでないなあ。キミは有川浩も結構読んでるの?」
「いえ、『図書館戦争』の一作目と『阪急電車』だけです。なかなか深められないでいる作家の一人ですね」
「『食わず嫌い』は、いけないかもね」
「そう思います」
「でも、幅広い作品を提供するための学問を修め、職業にしようとするのならば、自分の『スキ・キライ』とどうやって折り合いをつけるか、ということが課題になるね」
「そうですね。神野教授も言っておられました。『選り好みしないように』」と少し視線を下げながらマイさん。
「どんな職業であれ、自らの信条や嗜好と折り合いをつけなければいけなくなる場面は出てくる。とりわけボクたちの場合は、嗜好性が極めて高い対象を扱わなければならない、という宿命がある」
「どうすれば...」と見上げるような視線でボクを見ながら、マイさんが言う。
「実はボクも、学部時代に悩んだことがある」
 悩んだ末に辿り着いた結論。対象を「作品」とは思わず、図書館学で言うところの「資料」だと割り切ること。「作品」と思うと自分の嗜好がつきまとう。必要とされる「資料」を必要としている人にお届けする。そういうスタンスに徹することで、「嫌い」とか「苦手」を克服するべきではないか。そんな職業意識を身につけることも、大学生のうちになすべきことの一つだと思う...
 今度はボクが雄弁に語ってしまった。
「そうですね。でも、わたしにできるかどうか...」とマイさん。
「大丈夫。まだ2年半以上あるから」
 気がついたら、授業の開始時間が迫っていた。そそくさと席を後にして、それぞれの教室に向かう。

7.天使のNDC

 7月の最後の週は、春学期の試験期間となる。
「キッチン・アンジュ」での授業は、予定通り7月の第2日曜日で基本情報処理のテクノロジ系を終わることができた。
「よく頑張ったね」と労いの言葉をかける。
「ありがとうございます。おかげさまで、毎日使っているパソコンが身近なものに感じられるようになりました」と微笑みを浮かべてマイさん。
「お勉強は順調のようね」と言いながら、奥さんが氷の入った新しい水を二つ持ってきて、ボクたちの前の温くなったのと取り替えてくださる。
 今日は二人ともサラダセット。ご主人が、ボク用の大きなお皿とマイさん用の普通のお皿を並べている。

「キミは、試験のある科目がいっぱいだよね」とサラダセットのハンバーグにとりかかりながら、マイさんに聞く。
「ええ。結構気が抜けないです。タイさんは?」
「大学院の科目は、ほとんど試験はない。7科目とっているうち、試験があるのが1科目。あとはレポートがちょっと」
「帰省はされるのですか?」とトマトにフォークを刺しながらマイさん。
「いや。こっちに残って、修論のテーマを考えたり、あとはバイトを普段より多めに入れて少し稼ごうと思っている。8月になると帰省する学生が出てくるので、その分のシフトに入る。マイさんは?」
「試験が終わったらすぐに帰ろうと思っています。去年は9月の初めまでいましたけれど、今年は少し早め、8月20日頃に戻ってこようかと思っています」

 梅雨も末期になると、雷を伴った強い雨にしばしば襲われる。「二週間に一回、不定期」のサイクルも7月半ばでいったん終了。マイさんは教授に本を返し、感想を述べると教授の質問に答えている。それが終わると夏休みの課題。「図書館ハンドブック」のようだ。
「買ってはいたんですけれど、『まだほとんど読めていない』と申し上げたら、『夏休み中に全部読んでくるように』とのことでした」と応接のところに来たマイさんが言う。
「夏休みの宿題としては少し軽めかな? 『よく学びよく遊べ』ということかもしれない」
「けれど、参考図書リスト以外は、法令も年表も含めて全部熟読してくるように、とのご指示でした」
「そうか。まあ、頑張って」
「じゃあ、試験勉強するのでそろそろ行きます」と、立ち上がって黒の大きなバックパックを背負いながら、マイさんが言う。
「まずは先に試験を頑張って、だね。この次はキミがこちらに戻って来てからかな」
「予定が決まったらメールします。それじゃあ、タイさん、お元気で」
「マイさんも」
 研究室の入口へ向かうマイさん。扉を開ける前に振り返って、ボクに向けて軽く会釈する。後ろで括ったセミロングの髪が、微かに揺れる。ウエリントンの眼鏡の右端が、キラリと光ったような気がした。

 彼女が故郷に帰る頃は、梅雨も明けて夏空が広がっているのだろう。
 ところどころ雲が浮かんだ青空を背景に、自慢気にニッコリと微笑む天使の姿を思い浮かべた。

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 8月に入ってボクは、ほぼ1日おきにコンビニの午後のシフトを入れた。それ以外は散歩するのも暑いので、キャンパスの図書館で、図書館が閉館のときはファミレスで粘って、論文集に目を通し修士論文のテーマに思いを巡らす。
 マイさんと交わした会話が思い出される。いっそライプニッツを題材にして書こうか? いや、学士レベルならともかく、修士となるとなかなかハードルは高い。通り一遍のことならすでに研究し尽くされている。やるならばライブニッツを手掛かりに、前後の時代の思想家にまで広げて、図書館学と関係する思想を幅広く論じてみる? いや、下手をすると図書館情報学でなく思想史の論文になってしまう。
 思考が行き詰まると、無性に誰かと話がしたくなる...

 気がつくと深夜1時を回っていた。そろそろ寝ようかと思って、ふと書棚から「日本十進分類法 新訂10版簡易版」を取り出して広げる。先輩から譲ってもらった第9版を自宅では使っていたが、「大学院合格祝い」として母親がくれた小遣いを使って新訂版を購入した。
 日本の図書館で広く使われているNDC(日本十進分類法)。森羅万象のありとあらゆる主題を分類することができる。例えばマイさんやボクは大学生。大学院も含めて「大学」はNDCでは「377」、そのうち「学生アルバイト」は「377.9」に含まれる。「図書館.図書館情報学」は「010」で、「大学図書館」は「017.7」に分類される。

 マイさんの課題図書にあった「ライプニッツ」は、「西洋哲学」の「ドイツ・オーストリア哲学」の中の「134.1」に名前が登場する。マイさんと話をした内田百閒や小川洋子、森見登美彦は、日本文学「910」の中の「小説・物語」の「近代・明治以降」である「913.6」に分類される。同じ内田百閒でも「阿房列車」は随筆になるので「914.6」。

 マイさんと勉強した基本情報処理技術者試験は「情報処理技術者試験」として「007.6079」という分類コードが割り当てられている。以前より1桁短くなったけれどそれでも長い。マイさんとの勉強場所の「キッチン・アンジュ」は「商業」の中に「飲食店:食堂,レストラン」の「673.97」があって、その中の「西洋料理店」の「673.973」だろう。マイさんと食べた牛丼のチェーンは「外食産業」として「673.97」に分類されるのか。

 マイさんの、知的で愛らしいキャラクターは「心理学」の中の「人格(パーソナリティ).性格」の「141.93」だろうか。
 マイさんの、そのスレンダーなスタイルは...「解剖学」の「491.1」? それとも「衣服.裁縫」の「593」?
 マイさんの、その...

 ...「天使」のNDCは「191.5」。

8.天使の夏休み

 帰省していたマイさんからの3度目のメールが、8月8日にあった。
「ちゃんと食べてますか?」
「モナドの調和が乱されない程度には」と返信する。

 さらに「マイさんのいない日常」が続き、ほぼ1ヶ月となった頃、15日にメールが来た。「19日に戻る」とのこと。
「よろしければ20日のお昼にお会いしませんか」とマイさん。
「OK」と返信。
「それでは、11時半に『キッチン・アンジュ』で」

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 その日も朝から暑い一日。発生した台風の影響はまだなく、照りつける太陽の下、約束の時間ぴったりに「キッチン・アンジュ」に着いた。
 少し早めに来て、ご主人と奥さんにお土産を渡したり、休み中のことを話したりしていたマイさんは、ボクが入っていくと、いつも通りニッコリと笑って軽く会釈をする。
 今日は完全にお客さんなのだけれど、ボクたちはやはり遠慮してカウンター席の奥に座る。
 奥さんが冷たい水を持ってきてくれる。熱気に包まれた体が求めるまま、一気に飲み干す。
「今日はわたしの父のご馳走ということで、なんでもお好きなものを召し上がってください」とマイさん。
「お世話になっている修士の方がいると話をしたら、日頃のお礼にお食事でも、とお小遣いをくれたんです」
「なんか、お会いしたこともないお父様のお世話になるなんて、申し訳無いような気持ちだけれど」
「そう言ってないで、タイさん。たまにはビーフシチューとかどうですか? サラダとライス大盛りは無料ですし」
「そうだね。そうしようか」
 マイさんはボクのために「ビーフシチューのサラダ、ライス大盛り」を、自分のためには「エビフライミックス」を注文した。

「タイさん、いかがお過ごしでした?」
「バイトと勉強。修論のテーマを考えていた」
 時々無性にキミに会いたくなった、と喉まで出かかった言葉を、シチューの牛肉の固まりと一緒に飲み込んだ。
「マイさんはどうだった? 友達と会った?」
「バンドのときの仲間と再会しました」
「少し焼けたみたいだけれど、気のせいかな?」
「そうですか? 海に行ったとき、焼かないように注意してたんですけど...」と少し恥ずかしそうにマイさん。
「海へは男友達も?」
「バンド仲間の彼氏とか、『彼氏じゃなくて医学の同志、とかいいながら実はいい感じのお相手』の男子、とかは一緒にいましたけれど...あ、わたしは『彼氏いない歴=実年齢』なんで...」と言うと、マイさんは微妙な笑みを浮かべる。
「ははは。恥ずかしながらボクも同じ」と、どうってことない、という風にボクは返す。
「バンドの仲間には医者の卵がいるんだね」
「ええ。一浪して地元の国立大の医学部に入学しました。バンドではベースでメインボーカルをしてた子です」
「救世主の?」
「はい。彼女が医学を志したのには長い話があるんですけれど、またいずれ、にします」
 二人が食事を終えると、奥さんがアイスコーヒーを持ってきてくれた。サービスとのこと。
「父からのお小遣い、ここの払いをしても相当余るので、母と行った日本料理店に行きましょうか? ランチならたぶん大丈夫です」とマイさんが提案する。
「うん、それは嬉しい。けれどお父様、キミがお食事する相手が男でも心配しないの?」
「あ、そういえば...」とマイさん。
「男性だ、と言うの、忘れてました」

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「『熱帯』は読み終えることができた?」アイスコーヒーをストローでかき混ぜながらボクは聞いた。
「はい...なんとか」
「どうだった?」
 彼女は作品の内容をざっと話すと言った。
「『消化不良』ということでしょうか。読後の納得感が得られないんです」
「謎を謎のままに語らしめる」というこの本に対する向き合い方が自分にはできない、ということ? この作品は「高校生直木賞」を受賞した。自分と年のそれほど離れていない高校生が楽しんで評価している。そういう作品を楽しむことができないとしたら、自分の今までの読書歴は何だったのだろうという気持ちになる。
 叡山電車、太陽の塔、古道具店、達磨...過去の作品に出てきたスポットやアイテムが登場するのも、本作ではどうもピンとこない。そしてエンディング。メタフィクションという構造から、こういう終わり方なのはわかるけれど、なんか「あ~あ」っていう感じ。
「大好きな作家の作品を楽しめないって、わたしのように好き嫌いのはっきりとしている人間には結構つらいんです。それも、苦悩した時代に終止符を打ち、作家としての宿題が終わった、と作者自身が言っている作品だけに、なおさらです」
 アイスコーヒーを一口含むと、マイさんは続ける。
「さらに読書経験を積んで、改めて読んだら違うかもしれません。けれど少なくとも現時点では、わたしにとっての森見登美彦さんは『夜は短し~』の森見さんであり、『四畳半~』の森見さんであり、そして何といっても『ペンギン・ハイウェイ』の森見登美彦さんなんです」
「話を聞いている限りでは、内田百閒や小川洋子が好きなキミだったら、『熱帯』も十分楽しめそうな作品のように思えるけど」
「この夏に天歌に帰って、タイさんやこちらの友達としばらく離れて気づきました。高校までは読書体験を共有する人がいない中で、読書も一人よがりになっていんだと思います。だから...」
 眼鏡の奥の彼女の瞳が、真っ直ぐにボクに向けられる。

「『熱帯』がメタフィクションということだったら、ゲームをやっている、バンドのときの仲間の...」
「タエコですか?」
「彼女に読ませたら喜ぶかもしれないね」
「タエコには、ゲーム原作の小説について教わってきました。ネットメディアと親和性の高いジャンルに、トライしてみます」
「森見登美彦が好きなキミなら、入って行けないジャンルではないと思うよ」

「そうそう、タエコといえば、帰省したときにバンドの仲間5人で集まって、スタジオセッションをやったんです」
「どうだった?」
「相当久しぶりだったのに、結構うまくできました。本当に楽しかったです」
 つい最近のことなのに、懐かしく思い出すようにマイさんは話す。
「何曲やったの?」
「レパートリー7曲。そのうち1曲は、恥ずかしながら...わたしのソロの弾き語りなんです」と、本当に恥ずかしそうにマイさん。
「そう、ギターで弾き語りやるんだ」
「本来、わたしはボーカルではないんですけれど、スタジオのオーナーに勧められて。その方のお好きな曲を練習して、ステージで3回披露しました」
「それは、聴いてみたい気がする、というか、是非聴いてみたい。音源を貰うことはできる?」
「7曲の音源差し上げます。それから...」
「それから?」
「よかったら...弾き語りをライブでご披露しましょうか」と真っ直ぐボクを見てマイさんが言う。
「本当に? 是非!」

9.天使の才能

 パフォーマーもオーディエンスも「ワンマン」の屋外ライブを、翌日、キャンパスで行うこととなった。

 台風の影響で風が出てきたその日、11時に図書館の前で待ち合わせだった。低い空にところどころ雲が出ているが、天頂に向けて青空が広がり、陽射しは容赦なく降り注ぐ。少し早く着いたボクは、図書館入口の日陰で暑さを凌いだ。

 約束の時間きっかりに来た彼女を見て、びっくりした。
 白のつば広帽子をかぶっている。彼女の帽子姿は初めて。
 ボクが言葉を失って見つめていると、彼女が説明する。
「あ、これですか。天歌でショッピングに行ったときに買いました。『ペンギン・ハイウェイ』のマドンナのお姉さんが、主人公の少年と遠出しようとしたときに被っていた帽子にそっくりだったので...変ですか?」
 髪はいつものようには括っていない。ストレートで少し前にも垂れている。彼女の髪先を体の前面に見た記憶はほとんどない。
「...全然変じゃない。とても似合っているよ」
「ありがとうございます。じゃあ、行きましょうか?」
 ギターケースを背負った彼女について、キャンパスのメインストリートを西へ向かう。

 彼女はイチョウ並木の下のベンチのところで止まった。
「このへんでどうでしょう。ここなら研究室棟に人がいてもあまり聞こえないでしょうし」
 研究室棟との間には校舎が建っている。
「ボクは構わないよ」
「じゃあ、準備しますね。持ってていただけますか?」と言うと帽子を脱いでボクに渡す。
 普段よりお化粧がしっかりとしている。特にアイシャドウとアイライナー。こんなにぱっちりとした目なのか。と驚く。見慣れているはずなのに見慣れない顔...

 ...そう。帽子に気を取られて気づかなかった重要なことに、やっと気がついた。
 眼鏡をかけていない。今日の彼女の顔には、あの鼈甲柄のウエリントンがない。そうだ。目が普段よりぱっちりとしていると感じたのは、度の強い眼鏡をはずしたことが、大きく影響している。
「あの...眼鏡は?」とボクは少し当惑気味に、ギターをソフトケースから出している彼女に聞く。
「ああ、今日はコンタクトです。昔から演奏するときは眼鏡を外してるんです。やはり、変ですか?」
 少し首を傾けるようにしたマイさんの瞳が、キラキラと輝く。

 流鏑馬の場面が思い浮かんだ。馬に乗って駆けてくる武者の一人が、翼を背負った愛の神キューピッド。矢を放つ。的であるボクに見事命中し、ボクはきれいに二つに割れる。

「ちっとも変じゃない...とてもいいと思うよ」とやっとのことでボクは言う。
「よかった。嬉しいです」とマイさん。

 青々と茂るイチョウの木。風が吹いて梢が時々揺れると、木洩れ日もあわせて揺れる。
 今日のマイさんの衣装は、上がレモンイエローにプリント柄のノースリーブのTシャツ。下は薄い紺色のデニム。細くて美しい脚のラインにぴったりとフィットしたスリムジーンズ。
 ギターストラップを肩にかけ、愛用のアコギをお腹のあたりに吊るしベンチに腰掛けると、彼女は、音叉で「A=440hz」を確認してチューニングを始める。
 ボクは立ったまま、彼女の一挙手一投足から目を離せずにいる。
 ストラップを調節してピックを持ち、軽く咳ばらいをすると、彼女はボクに視線を向けて、ちょっとはにかむように言う。
「じゃあタイさん、いきます」

 Bマイナーのコードを一発鳴らすと、パンチの効いたボーカルが始まる。
 躍動的なギターに乗って進む力強いメッツォ・アルト。普段、話をしているときは気づかないが、歌うと、少しハスキーな声が露になる。それが曲の雰囲気にぴったりと合っている。地声の音域から裏声の音域への遷移も絶妙。
 ネックに張られた弦の上を軽やかに動き回る左手。右手は激しく、ダウンストロークとアップストロークを繰り返し、1ヶ所だけアルペジオを奏でる。最初に会ったときに感じた、腕の「不思議な逞しさ」は、ギター演奏で培われたものだと納得した。
 いつもは決して見せることのない、恍惚とした表情。ティーンズの恋愛を、ちょっと過激に描いた曲の世界に没入している。
 スキャットが続く長めの後奏。突然に訪れるエンディング。しばらく目を閉じて余韻が完全に消えたのを確認すると、彼女は目を開く...

 おでこにうっすらと滲んだ汗に、ピックを持ったままの右手の甲を軽くあてて、マイさんが口を開く。
「...どうでした?」

「すごいね...キミの、才能」
 拍手すら忘れていたボクは、やっとのことで言葉を絞り出した。
「嬉しいです。音楽の才能を褒めていただいたの、久しぶりです」

 そうじゃない、キミの...「天使の才能」

 何か言わなくちゃ、と思って彼女に話す。
「夏休みのうちに、図書館巡りをしようと思っている。よかったら...一緒に行かないか?」
 ああ、なんでもっと洒落たことを言えないんだ、すぐに悔やんだ。
 けれどマイさんの反応は好意的だった。
「ええ。是非、ご一緒させてください」
「じゃあ、最初は国立国会図書館から」
「嬉しい。念願が叶います」

 ギターを抱えたままの天使の顔に、晴れ渡った青空のような笑顔が広がった。

<完>

#創作大賞2023

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