十両在位1場所力士列伝 大石田謙治編(上)

どんな大横綱や名力士、あるいは名行司・名呼出であっても、力士生活の中で一番嬉しかった瞬間を尋ねられれば、口を揃えて「十両(格)に上がったときだ」と言う。
本連載では、その十両の地位に生涯たった1場所だけ在位することができた男たちの土俵人生を追いかけていきたい。

師匠不在の大阪で初土俵

大石田謙治こと石田謙治は、昭和36年10月生まれで神奈川県相模原市の出身。中学時代まで柔道をしており、相撲経験はなかった。初土俵は昭和52年春場所、当時すでに石田(春日野、のち栃近江で最高位幕下4)がいたため、師匠・「大」鵬から一字貰った「大」石田を名乗っている。
余談ながら、大石田の弟弟子にあたり、幕内まで進んだ大若松も、若松の年寄名と重なるために「大」をつけたケース。また、昭和61年には同じく大鵬部屋の弟弟子として大阪出身の石田が入門し、大石田と石田が同居する時期もあった。

ところで、昭和52年の春といえば、大鵬が脳梗塞に倒れた直後。当然、本場所も休場を余儀なくされ、大石田(と同場所初土俵の紺野)にとっては、師匠不在の大阪で迎える出世披露だった。
当時の大鵬部屋についても触れておくと、花光の大嶽(12代)が昭和50年に退職したことで部屋付きの年寄はおらず、師匠不在の急場を元・幕内黒獅子の尾崎勇コーチが埋めていた。『相撲』昭和52年6月号によれば、リバビリのため本場所に行けない大鵬に代わり、尾崎氏が現場で所属力士の取組を見届け、結果を電話で伝えていたのだそう。この52年夏場所では、大真(のちの関脇・巨砲)と満山(嗣子鵬、最高位前頭2)が部屋創設以来初の関取昇進を決め、病後の師匠を喜ばせている。
尾崎氏は翌53年にコーチを辞めるが、同年初場所後に引退を発表した若ノ海(花籠)が13代大嶽を襲名し、部屋付き親方として移籍。その後、平成初期に廃業するまで補佐役として不可欠な存在としてあり続けた。
大嶽の名跡と若ノ海の13代については、以下の記事でも取り上げているので、興味がある方は参照していただければと思う。


5年強で幕下へ進出

54年初場所、入門から2年足らずで三段目に進出した大石田。その後1年半ほど中位~下位で力を蓄えると、迎えた55年秋場所、三段目81枚目で最初の相撲から6連勝、各段優勝にもう一歩のところまで迫った。
筆者の調査が正しければ、この場所の活躍を伝える雑誌『相撲』昭和55年10月号の記事が、大石田の取り口について詳細に記された最初の資料である。以下にその内容を引用したい。

十八歳の大石田は若い頃の麒麟児を思い出させるきっぷのいい相撲を取る。
181センチ、125キロの体つきも似ている。
七番相撲では福田(立田川部屋 筆者註:のちの十両=現若者頭福ノ里)に動き負けして投げを食ってしまったが、闘志あふれる突き、押し相撲は将来が楽しみだ。

同じ二所一門の三役力士に擬えられた若き大石田は、この2場所後(56年初場所)にも三段目49枚目で6勝と大勝し、これ以降上位に定着。57年夏、西3枚目で4勝3敗と勝ち越して翌名古屋場所の新幕下を決めた。
このとき20歳、当時としては決して早いという出世ではなく、同期生ではすでに騏ノ嵐(押尾川部屋)が幕内で活躍し、前乃臻(高田川部屋・のち小結)や港龍(宮城野部屋・のち幕内)も幕下上位で奮闘中。ただ、のちに幕内まで上がる恵那櫻佐賀昇(ともに押尾川部屋)あたりとはそんなに差がなく、遅れを取り戻せるだけの位置には立てていた。

一度三段目に落ちるも、2度目の幕下となった58年初場所は西51枚目で5勝2敗。『相撲』昭和58年3月号では、

大嶽親方(元幕内若ノ海)初場所の推奨株は大石田。幕下にあって呼雷山から給金直し。天馬から五勝目を収めた。
「突っ張ってよく前に出ていたね。四つでも取れるんだが、徐々に力もついてきた。場所に入って相撲内容もよくなってきた(後略)」

と地力の向上を感じさせる記事を掲載。現に大石田は、この場所を起点に幕下の地位を長く保ち続ける。
そして、念願の十両昇進を果たす物語は、その幕下からこぼれ落ちるという屈辱をキッカケに始まるのである(中編に続く)

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