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「妊娠させられる」発言の嫌悪感

「あの人はまだ若い。まだまだ女の子を妊娠させられる」
 こんなことを老年男性が言っていたら「気持ち悪い」「ないわー」と言われるのは当たり前である。この嫌悪感は、どこから来ているのか。問題はどこにあるのだろうか。
 あまりに不快だったので、あえて関連記事等は引用しない。「なんのこと?」と思う方は、精神衛生のためにも、何も見なかったことにした方がいいと思う。


発言のセクシャル性

 まず、この発言のセクシャルな面について取り上げる。
 大前提として、現在の社会においては「妊娠は平等な立場における両者の合意によって成立に至るもの」が望ましいとされている。そして私自身、この通念を違和感なく受け入れることができる。
 ここで、くだんの発言を再度表記してみよう。
「あの人はまだ若い。まだまだ女の子を妊娠させられる」
 妊娠が「させる(ことができる)」ものであるなら、必然的に「させられる」側も存在する。言い換えれば「妊娠」とは、「させることができる強者とさせられる弱者の存在によって成り立つ」ものである、という意味を内包しているのである。
 さらに物理的に、肉体的男性性を持つ人(以下男性)は前者、肉体的女性性を持つ人(以下女性)は後者の立場に立つ。
 つまりこの発言は、前提に「妊娠は男性がさせる側であり、女性がさせられる側である」という意識があるのだ
 この意識自体、現代社会の通念に反する時代錯誤なものであり、人権に対する意識が希薄だと言わざるを得ない。


若年者・女性への敬意の欠如

 特に女性の視点に立つと、嫌悪感を覚えるだろうことは想像に難くない。実際に、SNSで「気持ち悪い」というコメントを多数目にした。
 妊娠させられる、と得意げに言うが、上から目線の相手に誰が妊娠させられたいと思うだろうか。妊娠はその後の女性の人生を左右することである。人生設計や負担を考えれば、たとえ自分のことでもやすやすと「まだまだたくさん産めるよ」とは言いにくい。
 さらに発言者や引き合いに出されている「あの人」が老壮年男性であり、相手が若~成年女性という事実も、強い嫌悪感の根源となった。むしろこちらの方が「気持ち悪さ」を喚起している可能性も高い。同じように成熟した対象ではなく、あえて孫のような若い女性と肉体関係を持つことを示唆し、恥じるところがない。愛した相手が若年であればまだ理解できるが、未特定の若い女性と肉体関係を持つことができる、と言っているのである。しかし若い女性の視点に立つと、同じ年代ではなく未特定の壮年男性と積極的に肉体関係を持ちたいと言う人がどれほどいるだろうか
 あたかも選べる立場にあるかのような表現で、相手を性的に品定めする発言は、一般的に受け入れられることはないのだ。いわゆる「気持ち悪さ」の根源はここにあるのだろう。
 老若男女に関わらず、人は性欲を発散する対象でも、有り余った精力をぶつける対象でもない。
「若い子を妊娠させられる」という言葉には、若年者への敬意、女性性の尊重意識がないのである。


発言のハラスメント性

 最後に、この発言のハラスメント性について整理する。
 この言葉の問題点を洗い出すために、上記の言葉を分解してみると、
1.させることが可能
2.させることが不可能
 この2者の存在が前提とされている。
 つまり
①妊娠させることが可能(精力がある男)
②妊娠させることが不可能(種なし)
③妊娠させられることが可能(子どもを産める女)
④妊娠させられることが不可能(うまずめ)
(※小説内などで使用される同義語をカッコ内に表記したもので、左項の立場にある人がカッコ内である、というものではない)
 上記四者の立場を内包したうえで、「あの人は①である」としているのである。これに近い表現としては③「あの人はまだ若い。まだ子を孕める」という、いかにも金田一耕助あたりが活躍しそうな世界観の発言になろう。すなわちこれは、発言者にとっては誉め言葉なのである。ただし、非のない他者を無用に下げての誉め言葉である。
 容姿に言及することがハラスメントと表現され、言われた人の不快感に気づき始めた現代において、この表現は極めて配慮に欠ける。「何でもかんでもハラスメントになる」とは言うが、明確に落ち度のない他者に比べて優勢であると褒めるのは、極めて悪手である。不快感を与えかねないことは意識しておくべきだ。


つまりは手遅れなのだと

 対等であるはずの男女間に、させる・させられるという関係性を置いている男女差別の意識=社会通念や自身の思想に合致しない違和感。
 選べる立場にあるかのような発言から感じられる、発話者の若年者・女性性への敬意の欠如=若年者に性欲を向けることへの嫌悪。
 特定の属性を優位に立たせた誉め言葉に見える無配慮のハラスメント性。
 上記のような問題をまとめて出した結果が当初の発言につながったのだと思うと、もはや何から手を付けていいのか分からない、というのが正直なところだ。万一実父がこのようなことを言った日には、説明などは放棄して「とりあえず、いまの発言は撤回して」とだけ釘を刺すだろ。
 私の中で初めに生じた言葉にならない嫌悪感、気持ち悪さは、特に女性性に対する敬意の欠如から来るものであった。その後男女差別意識に気づき、よくよく考えた結果「ハラスメント」という表現が間違いでないことも得心がいった。自分があまり生気がないと感じている男性にしてみれば、ハラスメントという感覚が最初に来るのかもしれない。
 さらには、この発言を編集もせず公開した側にも、疑問を感じざるを得ない。放送ラインぎりぎり、むしろアウトではないかと思うが、編集した人やチェックした人は「うわ、これは……」とは思わなかったということか。発話者が老年であることを考えると、むしろもう少し年代が下がる編集者や責任者のラインで「これは良くないですね」という判断がなかったことこそ、改善の余地が残ると言えよう。
 ともあれ、往年の大スター達が目も当てられない失言をするたびに、胸が痛くなるこの頃である。


 ちなみに「元気である」という表現はハラスメントには当たらないと、わたしは考えている。
「元気」は肉体面だけでない。例えば子どもは39度の発熱があってもはしゃぎまわり、元気であると表現される。腰が曲がって走れずとも、趣味に生きる高齢者は「元気ですね」と称される。
「元気である」とは「元気がない人と比較している」のではなく、「イキイキして見える」という意味なのである。
 同じ褒めるなら、こちらの表現を使用したほうがいい。