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「チイキの耕し」の重要性について

シン・マチヅクリにおける「チイキの耕し」の重要性について

地域、地域と言葉ではいうけれども、「チイキ」という「場」は一体なんだろうか。

原野林の中を歩くと、地面はこの体をフワフワと受け止めてくれる。
バランスを崩すと最後は大地がしっかりと受け止めてくれる。
私たちが日々生活をしている「地域」はどうだろうか、
アスファルトやコンクリートで覆われた「地域」は、
人を受け入れ受け止めてくれているだろうか。

大拙が語る「大地の大切さ」を「チイキ」と読み換えてみた。

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「シン・マチヅクリ」の奥の院は実に「チイキ」の座にある。

現代人は自然の美しさと哀れさは感じるが、「チイキ」に対しての努力・親しみ・安心を忘れてしまった。

したがって、「チイキ」の限りなき愛、その包容性、何事も許してくれる母性に触れられなくなった。

社会は、制度、システム、ルールを食み出し、跨ぎ越した者を腐らす、醜きもの穢らわしいものにする。

が、「チイキ」はそんな者を悉く受け入れて何等の不平も言わぬ。

かえってそれらを綺麗なものにして、新しき生命の息を吹き返らしめる。

人間は「チイキ」において人間と人間との交錯を経験する。

人間はその力を「チイキ」に加える。「チイキ」は人間の力に応じてこれを助ける。

人間の力に「マコト」がなければ「チイキ」は協力せぬ。

「マコト」が深ければ深いだけ、「チイキ」はこれを助ける。

人間は「チイキ」の助けのいかんによりて自分の「マコト」を計ることができる。

「チイキ」は偽らぬ、欺かぬ、またごまかされぬ。

人間の心を正直に映しかえす鏡が人面を照らすが如くである。

「チイキ」はまた急がぬ。春の次でなければ夏の来ぬことを知っている。

阿頼耶識(あらやしき)に蒔いた種子(しゅうじ)は、善き種も悪しき種も、その時節がこないと芽を出さぬ。葉を出さぬ、枝を張らぬ、花を咲かぬ、したがって実を結ばぬ。

秩序を乱すことは「チイキ」のせぬところである。

それで人間は「チイキ」からモノの順序があることを学ぶ、辛抱するべきことを教えられる。

「チイキ」は人間にとって大教育者である、大訓練者である。人間はこれによって自らの完成をどれほど遂げたことであろうぞ。

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置きベン(ベンチをチイキに増やす活動)は「チイキの耕し」ができそうな感じがしています。

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