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ノルウェーの精神科医トム・アンデルセンと「唯識」

「口に出して初めて考えていることに気づく」

小谷信千代著「唯識説の深層心理と言葉」(摂大乗論に基づいて)の朗読を聞き話す会は、氏の難解な文章にもかかわらず、参加者の皆さんと共に難解なまま読了までたどり着けそうな予感です。

「唯識(ゆいしき)」というと、どうしても「阿頼耶識(あらやしき)」とか「末那識(まなしき)」とか「八識説」などと「識」について解説する本が多くあるなかで「意識」と「意言(いごん)」、「唯識」「唯言」というふうに「識」だけではなく「言」すなわち言語化、言説化されたものをどう解釈するかが、小谷信千代氏によって何回も何回も、難解に難解に書かれている感じがします。

そして、ひらがな表記の「ことば」と、漢字表記の「言葉」を想定して、依他起性(えたきしょう)・遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)への解釈が進みます。

更に、井筒俊彦氏の著書「意味の深みへ」を参考文献にして、「潜在的『意味』形象」、意味の形象化というコトバから、ひらがな表記の「ことば」を「下意識にたいするコトバのはたらきかけ」という「言葉となってアーラヤ識へ薫習する」様子に理解を広めています。

あと、「文に似」「義に似」も何回も難解に解説され、「法と義」の真実は分別智によっては「不可得(凡夫にとっては得ることができない)」であるという事が何度も書かれています。

ノルウェーの精神科医トム・アンデルセンの「口に出して初めて考えることに気づく」というコトバは、「意味が形象化」「意言(言説化)」し外在化され→「意識(化)」されたものが「名言種子(みょうごんしゅうじ)」として「アーラヤ識」へ(再び)「薫習(くんじゅう)」され、「現行熏種子(げんぎょうくんしゅうじ)」「種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)」する円環運動(リフレーミング?)とも解釈できます。

とするならば、「如何に語られるか」「如何に語るか」という現行で「アーラヤ識」は書き換えられ、「如何に聞くか」は「分別」している限り(我々凡夫には非言語も含め言葉からは)「真の意味」は「不可得」である。決して得られないということになります。

たとえ「ジャッジしないで聞く」と取り組んだところで、凡夫には「文に似」「義に似」たもの、既に見聞きした瞬間に分別され「似たようなもの」の認識でしかないということがこの著書の「主訴」なのかもしれません。(読了すれば主訴は変わるかもですが、)

どう語るか、どう聞くかで、分別智の世界は如何様にも変わってしまうという自覚を促されているようです。そのうえで、次元、次々元をどうしていくかは「止観」(観を止める)によって、「円成実相(円成実性)」(えんじょうじっそう・しょう)の境地へ進みゆくものと思われます。

次の著書は「修行者達の唯識思想/佐久間秀範著」を予定しています。

文章自体の難解さは軽減していますので、朗読を聞き話す会を通して用語に聞き慣れ、読み慣れ、アーラヤ識へ現行熏種子されてきたらしめたものです。

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