あれから11年。

3.11の記憶

あの日、小学6年生だった私は、学校の体育館で卒業式の練習をしていた。卒業式はちょうど1週間後の18日に開催される。…はずだった。

突然の強い揺れとともに、先生の「イスの下に隠れて!」という声を聞いたのを覚えている。

卒業式の練習中だったので、隠れられる場所は自分のイスだけ。文字通り「頭隠して尻隠さず」状態だった。

揺れは永遠に感じられた。おさまってきたと思ったらまた強い揺れに襲われる、その繰り返しだった。あとで調べたら、6分間も揺れていたらしい。照明が落ちてくるか、最悪天井が壊れて潰されるんじゃないかと思った。

ようやく揺れがおさまり、学校中の児童が校庭に避難した。タイミングを見計らったかのように雪がちらついてくる。寒い。何度も余震が来て、校庭の地面が波打つのが見えた。

偶然、妹のクラスが隣に並んだ。当時1年生だった妹は、私の顔を見るなりほっとしたのか、泣き出したのをよく覚えている。

迎えにきた母と家に帰った。車を止めようとすると、駐車場がボコボコに波打ち、水浸しになっている光景が目に飛び込んできた。住民はみんな外に出ている。最初は何が起こっているのかわからなかった。

いわゆる、「液状化現象」が起こっていたのだ。

家はマンションで、近くには大きな沼?池?がある。たぶん、元々水分が多い土地だったのだろう。

マンションの地盤のあたりが20cmほど沈んでいて、建物の中にはたくさんの亀裂が走っていた。

その様子を見て不安になったので、私たちは必要なものを車に積み込み、避難所となる小学校へ戻った。結局それから1週間、避難所生活を送った。

のちに実家は「全壊」判定を受けた。個人的には全半壊くらいでいいのでは?という感じだったけど。修繕にかなりのお金と時間がかかったが、今も普通に家族が住んでいる。

避難所にいる期間のことはかなり細かく記憶に残っている。常にラジオを流してニュースを聞いていたこと、11日の深夜に自衛隊が毛布を届けにきてくれたこと、毎晩トランプで遊んでいたこと、日に日に配給される食料の量が減っていったこと…

久しぶりに家に帰った日の夜は、家族みんなで鍋を食べた。お腹いっぱい食べられることが何より幸せだった。11年経った今でも、あの日の鍋より美味しいと感じた食事はない。

18日に予定されていた卒業式は25日に延期された。揺れに襲われた場所、そして避難所として寝泊まりしていた場所であった体育館に、私たち卒業生は再び集まった。

紅白の垂れ幕はなし、お花の装飾もなし。当時は「お祝い」ができる雰囲気ではなかったからだ。でも、卒業生が全員無事で卒業式の日を迎えられただけで幸せだったと思う。

中学校の入学式は、なんと、廊下で行われた。中学校の体育館が、地震によって壊れてしまっていたから。後にも先にも、そんな経験ができた学年は私たちだけだろう。

いま、思うこと

揺れは震度6弱とそこまで強くなく、津波の被害はなし、家は全壊だけど今も人が住んでいるし、身近な人を失うこともなかった。私自身が受けた震災の傷は比較的浅く小さかった。自分を"被災者"と呼ぶのもおこがましいと思ってしまう。

それでも、毎年、3月11日14:46の黙祷の時間には、自然と涙が溢れてしまう。

津波によって妻子を失った高校の恩師。生まれ育った街が壊滅的な被害を受けた大学の友達や後輩たち。自分にとって大切な人たちの悲しみが、私の心にも染み込んでいるから。

私は東北が好きだ。生まれ育った宮城も、今いる岩手も、他の県も、たくさんの魅力が詰まっている。

毎年3月11日が近づくにつれて、テレビで震災関連の番組が増えるけど、「あの日」の記憶を伝えるだけではなく、「今の東北の姿」ももっと取り上げてほしい。

たしかに「復興はまだ終わっていない」。特に、福島の原発事故による被害が深刻だと思う。

でも、私たちは確実に前に進んでいる。それも知ってほしい。伝えたい。

コロナが落ち着いたら、またたくさんの人たちに東北を訪れてほしい。震災の傷跡を残しつつも、新しく生まれ変わった東北の街を見てほしい。今の東北の魅力をたくさん感じてほしい。

これからもがんばろうね、東北。

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