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台風(タイフーン)ベビー

  テレビの気象予報が、「大型の非常につよい台風が、時速二十キロの速さで北北東に進んでいます」と伝えている。和子が居間で洗濯物を片付けながら、嫁の奈々に話しかけた。

 「随分、大きな台風が来るみたいね。今晩には関東地方に接近するそうよ。台風の影響で関東地方の上空にあった秋雨前線が消えちゃったみたい」。洗濯物の片付けを手伝おうともせずに、テレビを眺めていた奈々が、綺麗にネイルした指についたポテトチップスの塩を落としながら不思議そうな顔をして和子を見た。

 「梅雨前線なら聞いたことあるけど、秋雨前線ってなんなの」。和子は洗濯物をたたむ手を止めた。「秋雨前線というのは、湿った高気圧と乾いた高気圧が喧嘩して出来るんだって。ものすごく不安定で、大雨降らしたりするそうよ」と気象予報士みたいな口調で言った。

 「喧嘩か、最悪だね。秋雨前線ってあたしと達也みたい」。奈々が真顔で言った。達也は和子の息子でクラブのキャッチをしている。奈々は十七歳でキャバクラ嬢をしていたが、一年半前に達也と結婚していた。

 「あなたたち、うまくいってないの?」。「うん、うまくいってないよ」。奈々がポテトチップスを口に放り込んだ。「でも、あんたたち、風太を産んだじゃない」。奈々がソファに座りながらミニスカートから伸びた脚を組みなおした。「出来ちゃったから産んだんだよ」。「そんな言い方するもんじゃないわ。赤ちゃんは授かりものだからね」と和子が咎(とが)めるように言った。

 奈々は口を尖らせて「おかあさん、あたしね、達也と別れるよ」と突然言った。「エッ、どうしてなの?」。「達也は風太ができちゃったから、あたしと結婚しただけなんだよ。ヤンキーな、あたしのことなんか、好きでもなんでもないんだよ」。「達也と別れるって、風太はどうするつもりなの?」。床にお座りができるようになった風太が、和子のそばで洗濯バサミを口に入れて舐(な)めまわしている。

 「川崎のママが、あたしのこと、まだ若いから、いくらだってやり直しができる、っていうの。だから離婚するなら、風太を達也に返せっていうんだよ」。和子は、奈々の母親の顔を思い浮かべた。厚化粧で離婚歴があり、川崎で美容院をやっていて、はっきり物をいうタイプの女であった。

 奈々がうつむきながら「ママが風太を産んだ責任は達也にあるんだから、女のおまえだけが苦労する必要はないって。達也の方で育ててもらったほうが、風太も幸せになれるって」と言った。「あなたも、若いといっても風太のママなんだから、そんなこと言ったら風太がかわいそうでしょう!」。和子は強い口調で言うと、幼いベビーの風太を抱きかかえた。

 奈々はしばらく黙っていたが、思いつめたように言った。「本当言うとね、前に一度堕したことがあるんだ」。「エッ、本当に」。和子が驚いて奈々の顔を見た。「あたし十六歳だったし、どうしようもなかったんだよ」。奈々が遠くを見るような目つきをした。

 「あたし、二度目の妊娠がわかった時、風太を産むかどうか迷ったよ。あたし、今度も堕そうかと思ったけど最後に産もうと決心したんだよ」。「どうして産む決心したの?」。「なんか、風太が偏西風に乗って突然あたしのお腹のなかに来たような気がしたんだよ」。「偏西風に乗って?」。「そうだよ、台風の多い年だったから、そんなふうな気がしたのかもね」。和子が奈々を見つめている。

 「達也に、あたし、産むよ、って言ったんだ。そしたら、達也が、『子供作るの、やっぱ、早すぎね』って言ったんだよ」。奈々がふうっと息を吐いた。「悔しかったよ」。奈々の目に涙があふれた。「でも、あたし産むって言い張って産んだんだよ」。奈々がはっきりした口調で言った。

 和子は居間の外に目をやった。いつの間にか、雨は横殴りになり、庭越しに見える雑木林の樹々の梢が大きく揺れている。台風が関東地方に近づき、暴風域圏に入ったらしい。

 数日後、台風は偏西風に乗って東北から北海道に抜け、温帯低気圧になって去っていった。台風とともに、奈々も黙って家をでて、川崎の実家に帰ってしまった。

 和子はキッチンで慌ただしく動きまわっていた。真っ赤な顔をして、ギャーギャー泣き叫ぶ風太をなんとかなだめて、離乳食を食べさせると、身支度をして風太をベビーカーに乗せて玄関から外へ出た。

 空にはどんよりとした雲が低くたれこめ、湿気をたっぷり含んだ風が吹いている。「なんか、妙に生暖かい風だね」と独り言のようにつぶやきながら公園に向かった。しばらく歩いて公園の近くの角を曲がった。胸が圧迫されるように感じて、ベビーカーを押す手をやすめて大きく息を吸った。

 「低気圧のせいかしら」。そうつぶやいて、公園の広場にあるベンチに腰をおろした。ぼんやり木立を見上げていると、高い梢が揺れた。数羽の尾長鳥が、ピューイという鳴き声をあげながら枝から枝に飛び移っている。

 「風太のママは、どこに行ってしまったんだろうね」。和子が空を見上げると、雲が勢いよく流れ出し、空の一角に青空が見えてきた。「風太は台風と一緒に来て、台風が行ってしまうと、置き去りされた、台風ベビーみたいだね」と風太に語りかけるように言った。

 突然、風太が、フッギャーと訳のわからない奇声を発して、勢いよく伸びをして、ニカッと笑った。まだ生えかけの二本の前歯が大きく開けた口からのぞいている。和子は思わず、抱きしめたくなり、丸々と太った手をにぎった。「まるでボンレスハムね」と独り言ち、「将来、この子も、やんちゃな子になるのかしら。でも風太にはママがいないから、わたしが風太の”タイフーン・ママ”になるきゃないね。すこし、しなびたママだけど、風太、我慢してね」。そう言うと、和子は立ち上がり、「ウッウーンン」と声をだして、すこしガタがきている腰を大きく伸ばし、自分をはげますように手で腰のあたりをいつまでも強く叩き続けていた。

 『初期短編小説集より』

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