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風のみち

  伊万里を訪れるのは俊太にとって初めてであった。大川内では、陶家の赤レンガの煙突から白い煙がたちのぼり、山あいをゆっくりと流れていく。   俊太は登り窯の窯跡を見て山道を降り、陶器の破片の埋め込まれたトンバイ橋を渡った。紅い寒椿の咲く脇の石段を登ると小さい梅林がある。

 俊太は小道でたたずみ、煙草に火をつけた。山の稜線から射し込む早春の陽光が心地よい。暖かい日差しに誘われたように髪に白いものが目立つ老女が小道を梅林のほうへゆっくりと歩いてきた。青地に縞柄のはいった厚手の上着を着てサンダルを突っかけている。

  老女は梅林の横で立ち止まると「白梅に紅梅ばまぜっと梅の実が沢山なるんだよ」と独り言のようにつぶやいた。「そうですか、それは不思議ですね」と俊太は思わず老女のほうをむいて微笑んだ。老女は上着のポケットに両手を入れたまま「昔からそがん言われている」とゆったりとした口調で言った。

  遠くで鳥が啼く声が聞こえた。俊太が見上げると、切り立って聳(そび)える山の稜線のうえを鳶(とび)がゆっくりと旋回している。老女が遠い山々の峰のほうに手をかざした。「あの山ばよく見っと、少し色ば変わったところが見えるだろう」。俊太も目をこらして見ると、遠くに聳える山の先端のすこし下辺りに小さな裂け目のようなものが見えた。

  「あいは鉄砲水の痕ばい。雨の降り続きよってな、地鳴りがしよった。突然、泥水と一緒に山の崩れ落ちてきよった。なんもかも根こそぎなぎ倒しよった」。老女は山に祈るような眼差しをむけた。「うちの家ばやられてしもうた。多くの人が海まで流されよった」。俊太は「山も凶暴になる時があるんですね」と老女のほうを見た。老女は深いしわのある顔をすこし歪めて「息子ば鉄砲水に流されてしもうた」と低い声で話した。

  伊万里の海でおびただしい遺体のなかに中学生だった息子が泥まみれで死んでいるのを見つけたと老女は言葉すくなに語った。「傷だらけの遺体やった」と老女は足元に目を落とした。「あんな遠くの伊万里の海まで流されたんですか」。俊太は梅林からかすかに見える海を眺めた。海は陽光を浴びて光っている。ここから伊万里の海まで数キロは確実にあるように思われた。

  老女はしばらく沈黙したあと、「竜平の亡くなった年に八朔(はっさく)の小さか苗ば植えた」と言って、道の向こう側にある一軒の家のほうを向いた。岩肌をさらした山裾から広がる杉林を背にして平屋の家があり、小さな畑のわきに八朔の木がある。太い幹に支えられておびただしい数の八朔が実り、黄金色に輝いている。「あれから四十年近く経ってしもうた。竜平の生きておったらあんたくらいの年かもしれん」と老女は俊太の顔をまぶしげに見た。俊太は残された者がすごした歳月を想った。

  犬の吠える声がして、庭先から幼い少女が駆け出してきて「おばあちゃん、お家へ帰ろうよ」と叫んで、老女の手をとった。俊太は「それじゃ、ここで」と黒いリュックを背負いなおして、陶家が軒を連ねる石畳の道を歩きはじめた。鉄砲水の痕のほうにあるキャンプ場に向かう若者たちが乗った四輪駆動車とすれ違った。ボリューム一杯のカーステレオの音が遠ざかっていく。

  後ろを振り返ると、山のほうから赤レンガの煙突からたちのぼる白い煙がゆっくりと流れてくる。俊太は、此処では山から海へ風のみちがあり、四十年前も山から海へむかって白い煙が流れていたのではないかと思った。

 『初期短編集より』

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