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濃淡があるとか言っておけば良いとか

いろいろと調べたり本を読んだりするうちに、
そして日々生活を送っているうちに、
「ははぁ、これはアレですね。僕はいわゆる発達障害傾向がありますね。」
ということを感じ入るように、ますますなってきた。

いろいろなトラブルや生きづらさみたいなものは、そこからやってきているのだなと考えられる。
ボーダーラインというか、グレーゾーン的なものなのか。
辛うじてなんとかやってきてはいる。

ようやく今ごろ気づいたのかよ、
という向きもあるかもしれない。

でもどんなに遅くても気づかないよりはいい。
そして、何かを学んでいることは、
学ばないよりはずっといい。と思っている。

たとえばこんな感じ

たとえば小学生のときの通信簿には、
もう少し落ち着いて行動しましょう
いつも書かれていた。

強い傾向ではないにせよ、思い返してみれば確かに落ち着きはなかった。
なんかこう、落ち着きがない男子小学生を想像してみてほしい。
そうそう、そんな感じ。
まさに想像上の落ち着きのない男子小学生としか言いようのない感じだった。

とはいえ、小学生などという生物は基本的に落ち着きがないものなのだから、「もう少し落ち着きましょう」みたいな文言は定型文的にみんな書かれているものだと思っていた。
はいはいクリシェクリシェみたいに思ってたところさえある。
しかしどうやらそういうものでもないらしい。

確かにちゃんと落ち着いている子はちゃんと落ち着いていたなぁ。

あとは、たとえば、僕は他人の顔を覚えるのが苦手だ。
久しぶりに会う人の顔と名前が一致しない。

こういうの苦手なひとは結構いるとおもうけどなぁ。
しかしこれも特性のひとつであるらしい。

それから僕はモノゴトの優先順位をつけるのが苦手だ。
やらなくてはならないことが複数あると、身動きが取れなくなってしまう。

それで手近なモノゴトから段取りを考えずに着手してしまって、わけわからなくなりがち。

曖昧な状態を受けいれることが苦手。
宙ぶらりんでいることができない。ネガティブケイパビリティが低い。

あとはちょうどよいという適切な尺度が分からなくなりがち
たとえば料理を作っているときに味付けが極端になったり。
安全性について異常に執着したり。
間違うことを恐れたり。

極端だ、ということがそもそも分からないので、ちょうどいいも分からないんだ。

僕はちょうど良いのが好きなんだ。
でもそのちょうど良いのが分からないんだ。

あるいは僕の”ちょうどよい”は、あなたの(世間の)”ちょうどよい”とは全然違うということかも。


そういった傾向というのは、いわゆる発達障害という状態の特性に現れやすいものであるという。

一般にレッテルを貼ることは偏見を助長したりするから良くないと言われる。
一方で、現象や状態に名前を付けておくのは良い。
なぜなら脳のリソースを節約することができるからだ。

”なんかこう困っている状態に陥る原因”に名前を付けておくことは効率が良く、すぐに思い出すことができる。

思い出すことができれば、そんな傾向があることを自分で把握しておいて、前もって対策をとることができるようになる。

手垢が付いた表現ではあるけども、孫子がこう言っている

彼を知り己を知れば百戦殆(あやう)からず

また、孫子だって年の初めにあたってはこうも言っているかもしれない

今年もよろしくおねがいします

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