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武士道精神の行方

 最初に、これから述べようとする話はあくまで左にも右にも寄らない一個人の世の中を平らに見たままを並べ立てているに過ぎない事、ある一つの想念により感じたままを言っているに過ぎない事を断って置きたい。その想像の産物を、心を無にして話したい。

 令和5年の年の瀬、世間を賑わせる話が相変わらず飛び交っている。政治、芸能、経済、世の中を構成していた世界の大部分が実は醜い人間のドロドロとした欲望によって作られた虚像であったと、マインドコントロールされていない人にははっきりと分かった事であろう。まだ良く分かっていない人も自分の普段の生活が穏やかな内は恐らく気付かないでいても、取り巻いていた世界が崩れていく事によっていつか現実に戻って来られると思いたい。人は、短期間に起こる出来事よりも長期間に渡り思い込まされた出来事に対して信用を置く生き物なのだ。他の動物が産まれた時からずっと同じ柵の中で飼われているとその柵があってもなくても出られなくなる様に、調教されたままの錯覚に陥ってしまう。

 今の目の前で起こっている出来事に対して、人々が何故こんなにも国の一大事に直面しているにもかかわらず悠長に構えていられるのか、その思いはかつて、三島由紀夫が感じた苛立ちにも似ている。茹でガエルは自分がじわじわと死んで行くのに気付かずにいる。屠殺される豚は自分が屠殺場に連れて行かれる車に進んで乗る。それが今の日本人の姿だ。税金が自分達の生活を圧迫して苦しくなっているのに痩せ我慢をして以前と変わらない素振りで笑っている。それで本当に人間であると胸を張って生きていられるのか甚だ疑問である。

 現在の日本の総理大臣の姿を、私は政治家としてでなく、一人の人間として読み解いてみたい。国民からすると、彼が何故、素人でも分かる様な愚策を露呈するのかと不思議に思う。いくら政策に携わっている頭脳集団が経済界を牛耳る組織からの指示で動かされていようとも、国家という体を崩壊させる様なプランを敷くだろうか。国家というものは国民という存在が無ければただの土塊に過ぎない。蟻塚はそれを維持する働き蟻がいなければ巣全体が滅びるのと一緒である。そこで、思い出した事がある。かつて、彼は2000年に起きた「加藤の乱」の一員であった。その政治革命は鎮圧され、その後、加藤紘一は鬼籍に入った。この愚策は、ひょっとして20年越えの彼の中での革命のリベンジなのではないのか。敢えてそう振る舞う事で国民に気付かせて、本当の意味で国を変えたいのではないのかと想像するのだ。同時に、私は山本周五郎の『樅ノ木は残った』の所謂伊達騒動の原田甲斐の戦法に想いを馳せたのである。もしかしたら、総理大臣は自分を馬鹿者に仕立て上げて、敵の懐に入り自分を犠牲にし本懐を遂げるつもりなのではないか。そうでなければこんなに分かりやすい愚策を敷こうなどと普通思うだろうか。

 少し願望が入りロマンチックな語り口に走ってしまったが、泥の船に乗りながらこれから起こる破滅に向かってワクワクしてしまう自分がいるのである。坂口安吾が言ったように、正しく堕ちる道を堕ちきろう。破滅に向かって突き進んで、その先にどんな世界が待っているのか観測するより他はない。

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