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運命の発生

 遅刻は社会生活を営む上では決められたルールに反しているので、悪である。時間というもので何事も回っている現代はほんの少し遅れただけで遅れた張本人は責められて罰を与えられる。しかし、遅刻する事自体を固定化した上で人間の本質というものを捉えようとすると、別な側面を観測できる場合がある。

 一人の男が、空港で仲間と待ち合わせをしていた。途中の道で事故が発生して大渋滞し、大幅に到着が遅れてしまったとする。他の仲間は怒って予定通りの飛行機に乗って行ってしまった。しかし、その男の親友だけは男の到着を待って別便に変更した。数時間後、何と先に旅立った仲間の飛行機がエンジントラブルを起こして墜落してしまった。極端な例であるが、この場合、遅刻は良い事であろうか、それとも悪いままであろうか。何が言いたいかというと、人間というものは、結果によって過去の行為の見方が変わる事があるのだ。普段、遅刻という行為の裏に前日に遊びすぎたからとか、二度寝したからとか不道徳な理由を考える。しかし、果たしてそれだけであろうか。家族が急病になってしまったのかもしれないし、約束の日を間違えて教えられていたのかもしれないし、理由は千差万別である可能性があるかもしれないのだ。この飛行機事故が先に旅立った仲間に降りかかったものではなく、後から乗った遅刻した本人に起こったとしてもまた別な印象に変わる事に気づくだろう。しかし、現代人は遅刻の悪いイメージを後の結果によって変えようとしない頑なさがあるように思える。その逆も然り。悪い結果になった場合、その発生元の行為に問題があったという場合もある。

 実家が太い、という例えがどの様な状態を表すかは良く分かっていない。現在、成功している人の出自が裕福であるとか立派な親であるから他の人よりは成功できる可能性が高いといった意味なのだろうか。確かに、画家や実業家といった才能が世間に認められる為にはそれなりに教育コストが掛かるし、その出資者である親や親戚の財力があれば不安なく学校に通える事だろう。しかし、本当にそれだけが成功の要因だろうか。例えば、画家が田舎に産まれた人だとする。いくら親が金持ちだとしても田舎は文化資本が極端に少なく、都会にあるような絵画を学べる場所も少ない。交通機関もほとんど無く、あるのは自然環境の豊かな風景だ。都会にあるような様々な誘惑に邪魔される事なく、自然の中で感受性を養い、集中して物事を観察する事で絵が上手くなっていったとしたらどうだろうか。都会に産まれて自分が知らない内にその人よりも恵まれた環境に囲まれていたとしても、親が金持ちで無いから成功出来なかったのだと安易に言えるのだろうか。運命はそんなに単純なものではない。成功出来なかったのはなりたかったものが自分に合っていなかったか、縁がなかったのだ。本当の理由は複雑に絡み合っている。

 SNSに匿名性がある事により人々は成功者に対する嫉妬心を隠さなくなった。それを観察している側としては興味深い事例を見る事が出来るので複雑な心境だが、人間は感情の生き物なのだとつくづく思うのである。人間の脳の前頭前野は感情を理性で抑える役割があるらしい。自然環境から切り離されて、人工的な遊び道具を与えられて曖昧なランダムさを感知できないで育った現代人は前頭前野が退化してしまっているのではないか、と全く専門知識が無いところで適当に思ったりする。気分がイライラしたらSNSから一旦離れて自然に触れると良いのかもしれない。

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