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夏虫疑氷

「炎は凍らないよ。凍るというものは、液体や物体の水分が凝固点を迎えたときにはじめて発生する現象だ」
「なら、炎はなんですか?」
「燃焼して分解された火種の粒だ。そこに水分はないだろう。水分は燃焼を邪魔するものでもあるからね」

彼は先達の言葉に肩を落とした。炎を凍らせる現象と相対した際、彼が取れる行動といえばただ己の無力と身の危険を省みて距離を取るのみであったから。

「君の言いたいことはわかる」
「それでも、やりようはありませんか?それじゃまるで、彼女は世界に嫌われているようだ」
「言いたいことはわかる。だけどね、彼女はもう後戻りのできない怪物に成り果ててしまった。厄介なところは、彼女は幽閉されていた迷宮から抜け出せてしまったところだ。迷宮の外を初めて見た怪物は、獲物が平気な顔をして歩いていることに驚くだろうよ。そして接触を図ろうとしても、触れ合い方は迷宮でしか学べていない」

彼は言葉を失った。救う手立てを探そうにも、探せば探すほどにそれは救いを求める己が祈りのように思えてならなかったからだ。
強く握った氷は少しも溶ける様子を見せることなく、彼の掌を痛めた。滴る血すら凍りつき、先達は無理に引き剥がした。
先達は窓辺に腰掛け彼を見据え、次の言葉を待つ。彼のことを知っていればこそ、厳しい言葉を並べ立てたとて意味はないと知っていたから。

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