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斜め?な自己紹介です

やわらかめバージョンでは、ふんわり感のある内容にしていましたが、ここでは、ふんわり感はちょっと少なめなところの自己紹介です
適宜、お付き合いくださいませ

あまり記憶にないけど、家は大変だったらしい

両親は昭和一桁生まれで、岡山県で育ちました
母はかなりお嬢さんで女学校も出て戦争が始まるまでは裕福だったそうです
戦争で一家の大黒柱が亡くなり、長女だった母は一家の生計を担っていました
父は9人兄弟の長男、足が悪くて働かないしお酒ばっかり飲んでいる自分の父の姿と子だくさんなのに家でゴロゴロしている夫の代わりに働き詰めの母親を見ながら、お酒はダメ、仕事はしないとダメ・・・ということを肝に銘じ、少年兵としては体が小さくて乙種の引け目も感じながら青年時代を過ごしたようです

そんな二人が、岡山で知り合いの紹介で知り合い、お金を得るために大阪に出てきたのです

大工だった父と、郵便局で働くことになった母は、それぞれの親と兄妹の生活費も稼ぎつつ学費も稼いだりと、なかなかの苦労の人でした

大阪で会社を経営していたものの、私の父は本当にお人好しだったので、商売が下手くそだったのであっという間に倒産
生まれて3歳ぐらいだった私は、親の代わりに、借金取り立ての電話に出さされ「お父さんもお母さんもいない」と言わされていました(笑)

その後、借金返済を待ってもらうための交渉の場にも私は連れて行かれていて、少し大きくなってからいろんな事態を知ったのでした

会社倒産、借金あり、家無し
当時ようやく借りていた屋根付きのガレージの奥に畳1畳ぐらいのスペースを作って、そこで寝泊まりしていたのです
子ども心にその狭いスペースが結構気に入っていて、「こんなところ好き!」と無邪気に話す私の姿に、母は安堵したと言うのを後から聞きました

高度経済成長期の中で育つ。厳しかった母。

その後、日本は高度経済成長の中に突入していくときの流れに乗り、いい人との巡り合いもあり、住宅機器設備の仕事を請け負うことができ、大阪市内の文化住宅を借り、とにかく毎日働き詰めだった両親だったようです
私は、祖母や叔母の家に預けられたり、一時期は岡山の祖父母の家に預けられたりしながらでしたが、両親は借金返済のためにとにかく働いていたようです

私はとにかく、のんびりした子どもだったのでよくわからなかったし、嫌な思いではないのですが、なんとなく・・・「お金は大事」と言うことが知らず知らずに刷り込まれていたかもしれません

そして、母は私を一人でも生きていけるようにと言うことと、なんとかいい子になって欲しいと思っていてか、とにかく厳しい母でした
「イエス」か「はい」しか言えなかった・・・
私は、家を出る時まで、母親に逆らったことはありませんでした
父はとにかく優しくて、一度も怒られたことはありませんでした
だから、生きてこれたのかもしれないですね・・・
母の顔色を窺いながらの生活・・・
ただ、母は私のことがとてつもなく可愛くて、大事だと言うことはとても伝わっていたのですが、だからこその重さと言うのもありました

「勉強をしなさい」も一度も言われたことはなかったのですが、「勉強する方向」に持って行かれていたのもあります
まぁ、親としてはとても巧みだったんでしょうね

可愛がってくれるところと、厳しいところのメリハリがすごくて、可愛がってくれる時は心底可愛がってくれる・・・いずれにしても、裏表がない人でした

中学入試の時は、家が小さな文化住宅だったので、担任の先生がお金の心配をして、「私学というのはお金がかかるのですが・・・こんなことを言うのは失礼なのですが、その辺りはご存じでしょうか?」と恐る恐る聞かれたそうです
当時は、仕事も順調で借金も返し、私が一人だったこともあって、私学に通わせるぐらいは大丈夫になっていたのです

小・中・高校・大学のときの私

私は本当にダメダメな園児〜1年生だったのですが、なぜか・・・2年生の時に学級委員に選ばれたのですよ
推薦という形で、多くの人が私の名前をあげてくれて・・・特に、男子からの推薦が多数
あ、私は美人でもなんでもないです、マジで・・・
すぐに泣くし、一人っ子だったので兄妹喧嘩をしたことがなく、喧嘩無理・・・
母も強めだったので、言いなりでしたしね
意思表示とかはあんまりなかったのか???でも、エレクトーンを習い始めた時から、自分の中の「負けず嫌い」の部分は認識するようになりました

その後、毎年学級委員になり、高校まで何故か推薦されていたのですが、今考えても何が私の強みなのかは不明です、本当に・・・

ただね・・・
記憶が曖昧なところは多いのですが、小学5年生の時に、ちょうど日本にはバレンタインデーというのが流行り初めだった頃で、毎年冬にお得意さんから箱いっぱいのチョコレートをもらうことがありまして、そのチョコレートを見た私は

「クラスでバレンタインデーをやりたい。女子が投票でチョコをあげたい男子に渡す」という提案

全員に一つずチョコは配布できるし、尚且つ、男子への投票用のチョコの数もバッチリありまして・・・

そういうのをうちの母は、応援してくれるタイプでした
そして、先生にも構想とやり方を伝えたら、なんとオッケー!
時代が時代だったので、今では考えられないことでしたが、投票でチョコをたくさん獲得した男子、全く投票してもらえなかった男子・・・など、悲喜交々でした

そんな、ちょっとした企画を提案してやってみることが多かったように思います
ポイントは、その提案を頭ごなしに否定する人が周りにそんなにいなかったことだと思っています
時代も時代、地域性もあったと思いますが、面白がったり、やってみたら?という環境が私の今の仕事にも生かされることになったんだなと、改めて思います

母から逃げたかったけど、感謝もしている

母は本当に可愛がってくれたし、昭和一桁生まれにしては頭が柔らかかったと思います
女子も4年制大学に行く時代になるから、絶対に4年制に!と当時はまだ少数派だったけれども、4年制大学がある女子校を選ぶ基準にしていたし、晩年は断捨離や終活についても積極的に情報を仕入れて、私が困らないように葬式やお墓のことも元気なうちから話をしてくれていました

ただ、娘としては母の強すぎなところ、一本筋は通っているんだろうけど言い出したら聞かないところ・・・などなど難しい場面も多く、早く家を出たかったのも事実でした

81歳で亡くなった後、夫婦間でのことや借金まみれだった頃の話、戦後の大変だった頃の話など、私があまり知ることができなかったことなど、10歳下の叔母からたくさん話を聞き、大変な時代を生きてきた中で新たな価値観や、自分の考え方をアップデートしながら生きてきたけれど、なかなか自分の自由な時間も持てず、亡くなっていった部分も感じることがあり、感慨深いものがありました
感謝はとてもしているのですが、あっという間になくなり、後腐れなく亡くなっていったけれど、改めて当時の私への対応や考え方は学ぶものがあるなぁと思っています

そんな全てが、NPOで仕事をすることにつながった

やってみたいと思ったことを、自分で考えてやってみて、次に繋げていく・・・
ということを結婚してからもやってきたように思います
私は仕事に対して、キャリア志向はなかったし、子育てもそこそこ楽しめたりしていたと思います
働くことについては、子どもの教育費のためにパートに出るぐらい・・なんて考えている程度でしたが、資格も何もない私が「こんなことやってみたい」と思って行動に移せたのは、小学校の時の「やってみたら手応えがある」という経験や、中学受験の時に親身に助けてくれた担任の先生
中学高校時代でも、先生たちは怖い先生もたくさんいたけど、私たちと同等に話して文化祭や役員でやってみたいことを、やれるようにしてくれた経験がたくさんあった時代だったかもしれません

会社員時代でも、色々とやらせてもらった・・・
地域ではやりたいことの足を引っ張る人の存在はありましたが、「何事もやってみないとわからない」「やらない後悔よりも、やった後悔を選択したい」というものが私の中に根付いてきたから、できたことが多かったなと思います

NPOを立ち上げて40歳を過ぎて大学院へ

何も資格がなかった私は、事業を始めるにあたり、母から自然に教わってきた、全体を見ていくこと、流れを見ていくこと、やってみたらいいこともあるし、人の意見にも耳を傾けて・・・などなどが事業に活かせることになったと思っていまして、なかなか先を見る目はあったと思うのですが(自画自賛笑)主婦がやっていることに対しての冷ややかな目は、ずっと気になっていました

これを打開するために、資格を取ろうと色々調べたのですが、資格を取るよりもしっかりと学問を勉強しようと、大学院を目指すことにしました
なんとか奇跡的に国立大学の教育系の大学院に入学することができ、社会・生涯教育の領域で、NPOにおける育児期にある女性の学びというものを研究し始めました

と言っても、大学では遊び呆けていて、なんの知識もなくお恥ずかしい限りなのですが同学年の若い学生さんに助けられたり、指導してもらったりしながら、文献を読みゼミに出席し頭から湯気が出そうなぐらい勉強しました
修士論文も書き上げ、修士で終わろうと思ったところ、指導教員から勿体無いので博士後期課程の進学を勧められ、進学しました
博士の学位は取れませんでしたが、実戦の中で研究をしていくこと、文献の見方捉え方、本の読み方など改めて身に沁みるほど勉強させてもらいました

NPO法人の事業は次世代継承へ

21年ほどの法人での経営については、また改めて書いていきたいと思っていますが、子育て支援から始まり、障がい児者の支援、相談支援事業、女性支援、まちづくり事業、子育てセンターの指定管理者、各種講座の企画実施、などなど色々とやってきました
ここで学んだことは、私の人生の中の中核にあたるところです
次世代に事業を継承し、今は相談やアドバイスなどさせていただきながら関わらせていただいています

終わりに

堅いバージョンだったのか?何やらわかりませんが(汗)少し違う視点から私のことをお伝えしたつもりです
事業としてどんなことをしてきたのか?という偉そうバージョンもまた書いてみたいと思います

人って、環境に影響されることが大きいなと思っています
元々の資質や気質もあると思いますが、どんな経験が自分を作ってきたのか?というところは大事なんじゃないかと改めて考えています

長い文章にお付き合いいただき、心から感謝します・・・ありがとうございました

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