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自己紹介:柔らかめ

そこそこ長く生きてきたので、長くなりそうなんですが、柔らかめバージョンで書いてみたいと思います
適宜、お付き合いください

生まれてから小学校入学

大阪市の南の方で一人っ子として生まれ、育ちました
結婚して10年目に授かった私を両親は逞しく育ててくれたと思います
とにかく、一人でもしっかり生きていけるようにしなくてはと・・・
でも、幼少期は本当に弱い子で、熱もよく出すし、ご飯も食べない、おむつも当時布おむつの時代だったけど、3歳をすぎても取れない・・・
自営業だった両親は、私を連れて仕事に行き、ずっとおんぶされたままという感じでした
保育園に1年だけ通ったのですが、ご飯がほぼ食べられないし、ほぼ登園しぶりだったんですよね
とにかく、給食やお弁当の時間が苦痛・・・今でも「おべんと、おべんと嬉しいな🎶」の歌は、なんとなく憂鬱な気分になるぐらいです(笑)
園の先生からは「こんな調子では小学校でかなり苦労すると思います」と言われたそうです
ご飯もほぼ食べなくて、牛乳しか飲んでなかったので、当然細い・・・近所の人たちは私が外で遊ぶ姿を見かけないので、「歩くことができない子」と思っていたそうです

小学校時代

そんな私も小学生になり、大阪市内は全員制服だったので制服を着て近所の子ども達と集団登校で通い始めました
朝ごはんは、牛乳瓶の牛乳をあっためたのものに、ゴムの乳首を被せて赤ちゃんのように飲んで通ってました(笑)
母の1番の心配は、学校給食が食べられないのではないか?というもの
当時は、たべられなかったら教室の後ろで食べ終わるまで残ってましたからね・・・
母の作成は、「給食というものはとにかく美味しい」「いろんなものを食べると可愛くなる」などを私に言い続ける作戦でした
私の場合は、その作戦に見事にハマり残すことはなく、好き嫌いもなかったので食べてましたが、当時の大阪市内の給食は恐ろしいほどに美味しくなかったです

当時は(昭和40年代後半)8クラスもあったのですが、友達もでき大好きな先生もいて、なんだかんだありつつも楽しんでいました
小学校5年生の時、当時地元の中学はかなり荒れていて、そういうところに行きたくなかった私と、私学に入れたかった母の意見が一致して、行きたい私立中学ができました
中学受験の旨を5年生の終わりに担任に話すと「無理です」とのこと
いつの間にか、負けず嫌いに成長していた私は、「絶対に○○中学に行きたい!」と勉強を始めました

好きとどうしても行きたい!は強い動機になる

当時は今では考えられないような、先生の熱心な関わりがありまして、私は本当にその先生に助けられました
2年生の時に、憧れの先生がいて、担任になって欲しいけれど2年に1回のクラス替えで5年生の時にその先生に当たらなかったら、もう絶望的だったのですが、奇跡的に5年の担任が外れることになり、「中学受験はあなたの成績では無理」と言われた先生から、憧れの先生が6年生の担任になったのです!
あの時に嬉しさと言ったら、当時の人生ではいちばんの嬉しさだったかもしれません(笑)

そして、先生に受験の意向を伝えたら、とにかく勉強するしかないということで、なんとその先生が、参考書・問題集・勉強の仕方を教えてくださったのですよ
家庭教師ではなくて、あくまでも学校の中でこっそり教えてくださったんです
それを早速買い込み、とにかくやるしかない・・・
先生も、気にしてくださりつつ、応援してくれていました
当時は、中学受験は3月1日と決まっていて、曜日関係なく3月1日でした
その時に、学校を休んだ子は、受験している・・・という暗黙の了解で、受験するということは、誰一人として言いませんでした
塾もあったけれど、通っている子はそんなにいなかったんですよね・・・
算数のどうしても解けない問題があったので、夏休みだけ夏期講習に行きましたが、基本的には自宅でとにかく勉強したなぁ〜懐かしい

そのおかげで無事に合格し、中学から高校までエスカレーターの女子校に通うことになりました

中学〜高校時代

当たり前ですが、女子ばっかりです
いろんな地域から通ってくる女子で1学年360人ぐらいいたと思います
私の感想としては、とにかく楽しかった!
楽しすぎるぐらいに楽しかった!
勉強も、地元の中学とは違う教科書で、やはり進み具合とかは違うんだな・・・というところでした

女子校って、怖いイメージあるみたいですが、いや〜サバサバしてて、そこそこのお金のあるお家の子が多かったっていうのもあって、私が通っていた時はもうみんな明るくて、のんびりしていて、本当に自由奔放でしたね

服装や頭髪については拘束が厳しくて、制服・カバン・髪の毛はオンザ眉毛でしたけどね(笑)
もちろん、検査の時は人が変わったようにみんな真面目な感じになってましたが、普段もそこそこ真面目だったな〜先生厳しかったしね

大学〜就職してOL時代

女子校に6年いる、その上に女子大があったので、そこまで行くと10年女子
楽しいけれど、さすがに10年も女子ばっかりだと、どうなん?と思い、大学は共学の大学を目指しました
が、あえなく全て不合格(涙)上の女子大だけ滑り止めで合格し、入学式はがっくりと肩を落として、いやいや出席しました
1年勉強して、共学に行く!と親にも宣言し、高校の恩師にも宣言し・・・
入学して、割り振られたグループですぐに研修旅行に出発しました
そこで友達になった子達が、これまたいい子ばっかりで・・・楽しくて楽しくて・・・
バイトも始めた私は、早々に勉強を諦め、女子大生活を謳歌することになりました
もう、本当に移り変わり早すぎ(笑)
4年間の女子大生活は、今では考えられないアナログさで、1時間半かけてようやく大学に辿り着いて、「休講を知る」みたいなね(苦笑)
そして、1時間半かけて、大阪ミナミに繰り出し、バイトと遊びに頑張る日々でした
何を学んだやら・・・親には申し訳ない・・・とか当時は思わなかったけど、とにかく楽しく過ごしていました

そして無事に卒論も書き終え、就職しました

当時はバブルの少し前で、就職先はとてもたくさんあり、女子でもたくさんの求人がありました
いくつかの会社からは、どうしても入社して欲しいと連絡をもらったりしました
そんな時代でした

私は、愛知県の会社に就職したのですが、当時は「実家から通う女子」でないと相手にしてもらえませんでした(今でもあるそうなんですよ・・・びっくり!令和だよ!)

小さな会社でしたが、とてもアットホームで素敵な社員の方に恵まれ、給与もそんなに良くないところでしたが、全国に採用の出張に行かせてもらい、人事研修のテキストや研修内容も考える機会をもらい、色々と経験させていただきました

最終的に、業務の提案の案件が採用され、10万円の旅行券をいただきそれで新婚旅行に行ったのです
文章を書くのが楽しいと気づかせてもらったのもこの会社だったし、私にとってはとても良い会社でした

結婚、出産、子育て、市民活動

当時、女子が結婚する年齢はクリスマスケーキに例えられ、24歳が一番売れる、25歳以上はなかなか売れない・・・などと、今ではそんなことはハラスメント以外の何物でもない時代になりましたが、なんとなくそれに乗っかっていた私は、それぐらいの年齢で結婚・出産となりました

仕事は、その会社では初めての既婚女子誕生となったのですが、妊娠がわかり、つわりの酷さと通勤時間の長さで退職しました

子どもが産まれ、子育て中はママ友もできてそこそこ楽しい時間を過ごしていました
実家が遠かったので、すぐに助けてもらえる環境ではなく、夫の仕事も遅く今で言う「ワンオペ」でしたが、「まぁ、こんなもん?」と言う感じでママ友と助け合えるところは実家遠いもの通しでやっていました

その後、ママ友との会話に物足りなさを感じ、子育ての話だけに終わりたくない・・・とサークル作ったり、手作りワンデイイベントやったり、ミニコミ作ったり、色々と動いているうちに、「子育て中のママを応援したい」と言うことで、当時ネットがなかった時代に、子育て情報を集めた一冊の情報誌を作成し、それがきっかけでNPO法人を作ることになりました

子育て支援はまちづくりから人づくりへ

NPO法人を作ってからは、子育て支援、まちづくり、障がい児者の支援、相談支援事業、子育てセンターの指定管理者、子育て講座の企画実施、女性支援などなどをやってきました

子育てというものからスタートした事業でしたが、まちづくりと切っても切り離せないものと考え、その後は、人づくりでもあるということを伝えてきました

この辺りは、また「自己紹介の堅い版」でお伝えしたいと思います

お読みいただき、ありがとうございました。

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