【#015】_『空間』について


今日も一日お疲れ様です。谷﨑です。
本日も私が普段から考えていることの投稿で、抽象的な内容です。

今回の投稿のテーマは、『空間』の種別です。

過去の有名な思想家の方が提唱されていた概念だったかと思うのですが、
私たちが生きる社会一般の空間を3つに分け、それぞれの特徴を分析していた内容だったと記憶しています。

それは、我々が生きる空間は、大きく「公」と「私」、2つに分類することができる、というものです。

公とは、英語で〝 public 〟であり、公園や公道、学校や職場のことを指します。
この空間には、理想的には『法の支配』が徹底されているはずで、人々が慣習や制度に基づいた秩序のもと過ごしています。

私とは、〝 private 〟のことで、プライベートの私的な空間のことです。ここに該当するのは、住居や宿舎などの(やや)閉鎖的な、外部の目が届きにくい空間です。

古代から、人間の社会生活はこの二つの空間の往来で成り立っていました。
公的な空間は、〝社会〟と呼ばれ、私的な空間は、主に〝家庭〟と呼ばれてきました(家族で暮らす空間を指します)。

公的な空間で人々が生活をする時は、ひとりの社会の一員としての人格の特徴を帯び、また社会的な関係性の制限を受けます。

それに対して、私的な空間では上記のような規則・慣習などの影響が及びにくいため、特徴としてはその空間の中での〝優位な存在〟の人格・意思がそのまま表れる、ということです。

私的な空間は、日本では〝家〟と呼ばれ、家父長制に見られるように、男性の発言や行動が重要として取り扱われてきました。
その中では、女性や子どもの自由は比較的制限される傾向にあり、特に高度経済成長期までは、結婚した女性の役割は〝家事や育児〟にフォーカスされていました。

男性は〝外〟で仕事、女性は〝内〟で家庭内労働、という「家族」という社会の構成単位の役割分担が一般的で、当時のある種の統一性と効率性も(一部)認めるような言説もあったかと思います。

ただ、上記のような役割分担は、男性と女性の身体やそれに基づく性格の差などの〝性差〟によるものであって、(言い方が適切かどうか不安ですが)私的な空間にほぼ〝幽閉〟されてしまっていたともいえる女性を社会的に開放しようという運動の結晶のひとつとして、『男女雇用機会均等法』などの法律が生まれました。

個人的な考えですが、〝性差〟は現実に確かに存在しているもので、その機能的な差は否定することができないものだと考えています。
女性にしか子どもを出産することは(現時点では)できませんし、男性の方が力が必要な作業は得意な傾向があるかと思います。

ただ、性差や遺伝的な特徴を取り除き、すべての人が同じ〝個人〟として取り扱われるとする場合、性別などの差によって社会的な分業が慣習的に決定されていた日本の過去をいま振り返ると、当時の状態はいまとなっては多くの人にとって違和感を感じるものといえるでしょう。

もちろん、身体的・能力的な特徴を取り除いた個人というのは、机上で考える上では社会の構成員である個人の前提として仮定することは可能です。
ただその場合、現実に存在している個人の間の様々な差異をどのように取り扱うか、という問題が発生します。

ここで、「公」「私」をする3つめの空間の概念として、「共」というものがあります。

「共」(英:common) は、「公」と「私」の2つの空間の特徴を〝止揚〟したものとして定義されていたと記憶しています。
シンプルに表現するなら、公の空間で働く社会的な作用を、私的な空間にも適用する、といったもので、言い換えるなら〝家庭〟のブラックボックス化を防ぐ、と表現することができます。

〝家庭〟という空間は、ほぼ閉鎖され、外部の目が届きにくいので、一般的にそこでは力関係が弱い(と社会的に評価されてしまうがゆえに実際に弱いと認識されてしまう)人たちが虐げられてしまう可能性が高い場所です。
実際に、家庭内暴力の被害や児童虐待というものはほとんど私的な空間でしか起きていないと思われます。

「家庭」に限らず、職場でもそうですが、とにかく閉鎖的な空間では周囲の監視の目が行き届かず、何かしら問題の発生する可能性が非常に高いため、そういった問題意識で今回の投稿をしているわけでもあります。

「共」としての空間は、「公」と「私」の両方の性質を併せ持つとされるため、その空間の中では社会の構成員たる個人が理性的に行動することが要求されます。

個人的な考えでは、「私的」な領域に「共的」な空間が占める割合が増えることが、理想的かつ規範的な社会の実現には正しいことのような予感がしていますが、
そもそも〝理想的な社会とは〟〝規範的な行動とは〟という主題を内包したテーマであり、具体的に考察は進んでいないため、今後、追記をしたいと思っています。

私自身の日々の言動で非常によく勘違いされることなのですが、
現状で成り立っている体制やシステムがすべて悪いと思っているわけではありませんし、悪い部分を少しでもなくして良くしていきたい、と普段から考えています。
私自身も30代になったので自らの行動に対しても自省的に考えるようにしていますし、それを継続していきたいと考えています。

今回の投稿をまとめると、
社会生活の空間は「公」と「私」の空間に大別され、主に「私」の空間で閉鎖的な問題が発生しやすい。それに対する処方箋として、「公私」を〝止揚〟したものとしても定義されうる、〝共〟の空間の重要性が高いと感じている、という内容でした。

そもそも現実世界の認知について、〝多重〟に概念を重ねあわせるような見方をすることは一見困難なことなのかもしれませんが、
そういった生活の前提を見直していくことにこそ、〝最大多数の最大幸福〟といった理念に代表される目標の実現があると考えています。

一般に経済力や(一定の社会集団における)決定権力を持っている人たちこそ、時に立場が弱いとされる人たちに配慮すべきだと思っていて、
もちろんそういった思慮が自然発生的に集団に浸透していくのが理想的なのですが、
生物的な差異や生理的欲求のためにおそらく自己の言動の俯瞰的な認知が不可能になるケースも、問題発生の原因を分析する上でありうるのではないかと考えています。

「公」的空間、および「共」的空間で(理想的に)追求されるべきなのはそこで生きる個人の自らの意思による行動の徹底的な制御だと考えています。

「自立」と「自律」に代表されるように、自己の思考や言動を〝律する〟ということは本当に困難ですし私もいまだにできていない部分が多いです。

ただ、何をするにしても、一人ひとりが、「これから自分がしようとしている行動は本当に正しいのか、衝動的になってはいないか、正しくない感情に影響された上でのものではないか」と、瞬間的にでも省みることは、私自身も徹底していきたいことですし、きっと様々な場面で必要なことなのだと確信しています。











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