父が亡くなりました⑨

8月12日

 8月12日の朝が来た。夜中に母に起こされなかった僕は、”その日”ではないことが分かり、静かに起きた。父のところへ行くと、父は相変わらず寝たままだったが、11日に医師が訪問している時より幾分呼吸が深くなっていた。兄と母とともに、呼吸の深さが戻っていたことに幾分喜んだ。

 介護士が来て、父の服を着替えさせてくれる時、右向きに寝続けている父を仰向けに戻して、左向きにしたりするのだが、その時だけ父は右目が開いた。それは痛みから発生するもので、とても痛そうな目をしていた。仰向けに寝ていると、痰が絡んで呼吸が出来なくなったり、舌で自分の喉に蓋をしてしまう危険があることに加えて、そもそも左向きでは痛みが酷くなる為、意識のある時から父は右向きだった。そんな理由で片目が開くだけでも、母は目が開いたと看護師と喜んでいた。

 12日頃から、父の口から痰とも何とも言えない液が溢れ出すようになった。口を開けたまま呼吸しているが、その液が詰まってはいけないと、家族で適時ティッシュで取るようにした。緑とも黄色とも言えない液で、体液だったかもしれない。11日の医師の言葉以降、僕らは父が呼吸していることを確認する為、食事中やテレビを見ているふとした時に、父の胸をみていた。フッと胸が少し膨らむ瞬間を確認して、「ああ、呼吸している」と安堵した。

8月13日

 父の状態に大きな変化は無かったが、呼吸のリズムが不安定になっていった。父の胸が膨らむ瞬間がなかなか来なくなった時は猛烈に不安に襲われ、しばらくするとまた定期的なリズムを刻んで呼吸する時間に安堵したり。母も兄も、僕もこの頃には精神的にも体力的にも限界が近づいていた。

 けれども、父の意識が無いだけで、僕らの声は聞こえている。だから、出来るだけ普段通りに話しかけ、テレビを見て笑ったり、いつも通りの日常を過ごすようにした。

 その日の晩、母が僕ら兄弟に父の遺影写真はどれにするか相談してきた。父が生きている時からそんな相談をするのは母としても極めて苦しかったに違いない。しかし、その時がきたらあっと言う間に様々なことをしなければならず、そんな余裕は無いことも分かっていた。僕らは父が以前に整理した家族アルバムを引っ張り出し、思い出話も交えながら写真を選んだ。兄とは何も相談しなかったが、兄と僕が選んだ写真は同じだった。母は声を震わせながらその写真にすると言った。僕らがその写真が一番”父”らしいと思って選んだ。優しく微笑む父がそこにいた。

 写真を選ぶ時、僕がとてつもなく悲しかったのは、父の写真を見て「こんな顔だったのか」と元気な父の顔を忘れていたことだった。あまりにも残酷だ。自分に対してショックを受けた瞬間だった。兄はそんな様子は無かった。おそらく、東京で暮らす年数が長くなり、定期的に帰省しているとはいえ、日々の父を見ていなかった兄にとっては在りし日々の父の顔が「父」だった。一方、父と一緒に暮らし続けた僕は、癌で変わっていく父を見続けていた為、今の弱々しい父の顔が「父」になっていた。後で母に聞いたところ、母もやはり今の父の顔が「父」になっていた。

 

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