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感傷マゾになりきれない

だって私は、未だに湯上瑞穂も天谷千尋もクスノキもみんないると思っている。東北のどこかで、近畿の田舎で、或いは東京の誰も見てないような路地裏でそれぞれまだ物語を紡いでいると思っている。それが私に見えていないだけで。

こんな夏を、部屋から出ないで、夜は不安で眠れない癖して昼間に馬鹿みたいに寝て、誰とも会わずに妄想だけする夏を救ってくれるのは私よりも悲惨で残酷な日々を送っていた人の悲惨なままの生活における幸福だ。

小学生の時は、スーパーヒーローの活躍する明るい話が好きだった。それがいると信じられたから。
中学生の時は、平凡な人間がスーパースターになる話が好きだった。人が変われると信じたかったから。

高校生、スーパーと名のつくもの全て嫌いになった。

自分が手に届かないものが苛つくのだ。手の届く幸福が好きになった。猫を飼いたいと思った。地方の国公立大学を志望した。進路志望で口を開かなくなった。流行りの漫画や音楽を聴くのを辞めた。

内向的で高尚とされている作品を好んでいれば、いつか誰かが気づいてくれるんじゃないかと思った。好きでもない洋楽を聴き続けた。読めない漢字のある新書の小説を訳も分からないのに読み続けた。ハードカバーで挟んだ薬指が痛かった。

私が持っているきっと誰か自分と似たような人がいつか救ってくれるという考えは、おそらく感傷マゾの概念に反している。きっと私は誰かにとっての''誰か''になる事を捨てきれてないのだ。

半年ほど前、BOOK・OFFで本を立ち読みしていた。みんながまだダウンコートを着ていた頃なのに、やけに薄着のカップルが2人入って来た。
男の人が18禁の本のコーナーの前で突っ立ってぼーっと棚を見ていた。そこに女の人が駆け寄ってきて何かを小声で話したあと2人はゲラゲラ笑った。周りの視線をすごく集めていた。2人は全然気にしていなかった。その後もそのコーナーで2人で何やら真剣に話しながら本を取ったり戻したりまた笑ったりしてるようだった。
2人は腕を組んで幸せそうに笑って店を出ていった。
15分ほどの出来事。でも今やけに鮮明に覚えてる。少女漫画や大学生のくだらない恋愛エッセイを100円200円で購入しようとしていた自分が情けなかった。それから何を読んでも頭に入ってこなくてふらふらと店を出た。手に入らないものを目のあたりにするタイミングっていつも最悪で、ちょっとだけ泣いてしまった。

その人達は小説や音楽の登場人物より遥かに俗物的だし、美しい環境でもなかったが、きっと出会うべくして出会ったのだろうな、と直感で感じた。

身近で、ものすごく''これが手に入ったらいいのに''なんでこんな単純明快な幸せが手に入らない'' という疑問と嫉妬を突きつけられた出来事だった。あのときの涙はきっと悔し涙だった。

何時までも手に入らないものを追い続けるのは苦しい。苦しいし、手に入る幸せとか、安定とかで妥協し続けたい。どんどん転び方とか傷つき方とかわかんなくなってって、もう何もしたくないといつも思っている。

でも私はあの感情を、風景を諦めたくない。

たとえ何かを犠牲にしたとしても、私の世界に必要なものがある。どれだけ痛くても、どれだけ苦しくて悔しい場面をみたとしても手に入れてみたい。とても傲慢だと思うけれど。

私は三秋縋の小説を読み続けている。やっぱり諦めきれてなかった。原風景の中で2人だけが幸せでいるその光景を、私はまだ懐かしめない。若さとか、経験のなさとかを言い訳にしていられる。
いつかを、そのいつかを待ったって罰が当たらない年だと勝手に思いこむ。それすらまだ若気の至りで許してもらえる年齢だ。


人の不幸は比べられないから自分が一番不幸なのだ。
そして不幸でいればいるだけ、誰かが救ってくれると思ってしまう。理屈も分からないのに。
その不幸な馬鹿は救って貰えなくなる時が来るらしい。
例外を除いて。

いつかその不幸が無駄だと気づいてしまうんだろう。その時にきっと本当に感傷マゾになれるんだろう。

ただもう少し。もう少しだけでいいから不幸なままのただの馬鹿のままの、駄目人間同士の不遇だけれども運命的な出会いを信じる、ヒロイニックな人間のままで居させてくれませんか。


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