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シン・ショギョウムジョウ

昨年は、impermanence/permanence というタイトルで個展を開催しました。
時期の異なる水溜りに映る風景をモチーフにした作品を対で並べて展示し、手もと足もとにある、変化し続ける物事を見ていこうよ、との主旨の展覧会でした。

会場風景 来てくれた皆さんありがとう!
対。
対。左右の違いがわかるでしょうか?


impermanence/permanenceは、一回きりの展覧会のタイトルとしてだけではなく、作品制作において重要なテーマとなっています。
このうちimpermanence、日本語では「無常」と訳されます。
祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり、、、の無常ですね。
さて。諸行無常ってなに?と聞かれて皆さんどんなふうに答えますか?

・世界のあらゆるものは一定ではなく移り変わってやがて消えてゆくもの。
・「あゝ」なんて感嘆や、くうを見つめる気持ちが混ざるような感じ。

そんなイメージでしょうか。
多くの日本人にとって「諸行無常」の考え方との出会いが、平家物語や方丈記といった文学作品であり、よって感傷的、情緒的な印象が強いのですよね。
私たちが抱く「諸行無常」、仏教的なものの考え方ではありますが、元来のインド仏教における諸行無常とは、随分とその意味が違います。

元来のインド仏教では、、、。
現実に起こっていることをそのまんま見る、ということを実は私たち、なかなかできていません。「自分なりの世界」を作り上げて、それを現実だと思い込んで生きています。だから「自分なりの世界」と「現実の世界」の間にはギャップが生まれて、このギャップがしんどさのモトなんですよね。
で、この「自分なりの世界」は自分の都合の良いように、自分がその時々で見たいように作り上げられます。一定性があるわけでもなく、永続性があるわけでもなく、消滅を繰り返し、確固としたものではありません。
「自分なりの思い込みの世界」が「行」。
「それは常に変動する不確かなもの」というのが「無常」。
「諸」はそのまま「一切の」という意味で、
一切の自分なりの思い込みの世界なんて不確かなものなんだよ(=諸行無常)、だからこの思い込みを手放して、ギャップに気付いて、現実を明らかに見ることでしんどさをなくしていこうよ、という教えなんですね。

この教えが1000年の後に日本に伝わって、移ろいゆく物事への眼差しと融合して、日本独自の諸行無常ができ、さらに禅宗が混ざって、能や茶道、生花へと繋がっていきます。この、美に昇華していくところ!日本の素敵でおもしろい面だな、と思っています。

それにしても「諸行無常」、漢字で書くと強めに渋みが出てちょっと作品と合わないんですよねえ。タイトルはカタカナにしてみましたが(庵野監督風)、何かいい言葉を見つけたいものです。

読みにきてくださりありがとうございます。
告知していた菊の話も、手紙の話もやめました。
次回は2月4日、立春の頃の更新を予定しています。

参考文献:
山口県立大学国際文化学部紀要10巻 「諸行無常」再考 鈴木隆泰
平家物語 梶原正昭・山下宏明校注 岩波文庫


おまけ雑記

現世の儚さは、西洋美術ではこんな風に描かれていますよ、というお話を、親しい友人とおしゃべりするように綴ります。
ご購入頂いたお金は、
・国立西洋美術館常設展 https://www.nmwa.go.jp/jp/
・東京国立博物館特別展「本阿弥光悦の大宇宙」https://koetsu2024.jp
の観覧料として使わせて頂きます。

◆おまけ雑記のお品書き◆
・現世の虚しさや儚さを描いた西洋美術、ヴァニタス絵画
・信仰を持たない私が、キリスト教、キリスト教美術を学ぶということ

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