適当に鈍感に生きていたい

人が何を考えているのか、何を思って私にその言葉を向けているのか、考えるだけ無駄だということをずっと、ずっとわかっています。

この世界には、自分とは異なる人間しか存在していません。私は私でしかなく、私は私1人しかいません。私の中でさえ、私1人だけがいるのか時折わからなくなります。私の中に、複数人の人間が存在するような時があります。私は、私とでさえ分かり合えないのです。

そんな私が、他人の考えていることなどわかるはずがありません。わかろうとしていることが間違いなのです。しかし、わかろうとする努力をしないことは間違っているのだと思います。どうせ考えていることなどわからないだろうと思いながら接するのは、相手に失礼です。

相手が自分に対して抱く、好きや嫌いなどの感情は、勝手に判断するべきではないと考えています。「好き」「嫌い」またはそれに類似するような言葉を直接伝えられたときのみ、その感情を信用するべきです。

私は適当に生きていたいです。人との関わりは誠実ではありたいけれど、適当でもいたいです。ラフな関係でないと、私は壊れてしまいます。真面目に向き合い、相手の考えや意図を汲み取ろうと努力しながら関わると、一挙手一投足に一喜一憂してしまいます。私は、私を守りながら人と関わりたいです。このくらい自分勝手な人付き合いでも良いのではないでしょうか。

この人は私のことをよく思っていないのだろうなと、あまりにも行動から伝わってくることもたらと思います。その際は、だからなんだと投げやりになるべきです。どうせ人は死ぬし、私も死ぬし、みんな死ぬし、もう死ぬことが決まった上で生きているのでいいのです。嫌われている人を好く必要は全くありません。嫌われている人に優しくする必要もないと考えています。その人のことを考える時間が勿体無いです。私は、好きに包まれ好きに溢れ幸福の世界を生きたいです。私のことが嫌いな人は私の世界に必要ありません。

鈍感になることの難しさを感じます。嫌味や妬み、気づかなければ傷つくことやストレスを感じることが減り、快適な人生を送れるのだろうと日々考えています。嫌いを直接伝えられる人はなかなかいないと思います。だからこそネットには誹謗中傷が溢れているのでしょう。直接相手に嫌いを伝えるときは、回りくどく、遠回しで伝えますよね。そういうものに鈍感でありたいです。もし回りくどい嫌味を向けられても、人は皆死ぬと脳内で連呼してどうにか耐えてきました。そもそも鈍感であれば、そのようなことをする必要もありません。

後天的に鈍感になることは可能なのでしょうか。空気を読めないのではなく、ただ人からのネガティブな感情に鈍感になりたいのです。気づかなくていいことを気づきたくないのです。また、大半が勘違いです。人は自分が思っているよりも、自分のことをどうとも思っていません。自分で人の気持ちを勝手に勘違いし、その勘違いで落ち込み、全てが無意味です。

来年から社会人になります。最も不安なことは人間関係です。この1年間で、どうにか適当・鈍感に磨きをかけたいです。

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