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隣の芝生の話。

気がついたらnoteの更新が立ち行かなくなり約1年。立ち行かないとか書くとちょっとワケありげですが、単に自分の文章能力のなさにテンションが上がらないから。もっとグッと引き込まれるような文章が書きたいものです。(ってずっと言ってる気がする)

というわけで人の文章を読んでみたりすると、やっぱり表現が美しいなぁとか情景が浮かんでリアルやなぁとか、何なら泣きそうになったりもする。自分じゃなく人が経験してきたことやのに泣きそうになる文章ってなに。

でもまぁ書き続けないことには培われないってこともわかってるつもりなわけで。(でも書いてないやん)

きっとずっと歳下であろう女の子の、何気ない日常が綴られたnoteをふと見つけて書き始めから遡って読んでみた。基本的にポジティブやけど、やっぱりうまくいかない日もあったり更新がしばらくなかったり。それでも日々思うことを「残す」。人に羨まれるようなことばかりじゃないけど、それがまた一層リアルでキラキラしてて、なんか良かった。

毎日何かある人の方が少ないねんから、その日に何もなくても、過去のことでも、思い出したことや不思議に思ったこと、胸を焦がしたことなんかを綴っていこうとあらためて決意。決意って言いながら続かないときの保険もかけておきたいと思ってしまう…そういうとこやでほんま。

人の文章に憧れてばかりで自分の文章しょうもないなぁと思うのは、自分から出てきてる言葉やから自分には新鮮みがないからなんじゃないか、と。だからいちいち平凡やなぁとか思わんでもいいのかもしれない。うん。

人の文章ですごいなぁと思うのは、自分ではうまく言葉にできなかったことを気持ちいいくらい「それ!」って言葉で表現しているのを読んだとき。あとは「そんな表現の仕方があったんか」と悔しくなるくらい斬新で的確な言葉を喰らったとき。

だから自分としては心にあることを表現しただけでも、人によってはその言葉や表現がすごい刺さったりずっと心に残ってしまうこともあるかもしれなくて。だから自分ではしょーもないと思っても、少なくとも素直に、できる限り気持ちを的確に乗せた言葉を綴っていればいいはず。

ライブの感想をインスタでつらつらと綴ったときに、知らない方から「言葉にできなかった気持ちをすべて言ってくれていたので思わずコメントしてしまいました!」というコメントがついたことがある。その投稿は、興奮さめやらぬまま長々と、でも感じたことを丁寧に的確に、誰に対してでもなく自分がこの気持ちを忘れたくなくて書いたものだった。だからこそ、それが誰かに届くというのはものすごく嬉しかったし、知らない人やけどなんかその人のこと信用しちゃった。

伝わるのは、案外「無意識と熱量」だったりするのかねぇ。

だいたいこうやって気持ちを整理しようと思うとほんっとに長くなる。端的にズバッ!とやってみたいもんだ。

まぁまぁ落ち着いて。やらなければできるようにならへんのやから。憧れや羨ましさを抱くお手本は溢れてるぞ。長くてもいいから出していこう。

見て見ぬ振りをしたり考えることを諦めていた気持ちに、いつか何かが見えるかもしれないからさ。

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