目に見えない感情の話。

(よっしゃ、前回からあんまし間隔開けずに更新できそうやぞ、と書き始めから思っている愚か者こと私ですどうも。…と書いたもののうまくまとまらなくて途中でやめちゃって更新できてなかったやはり愚か者こと私。)

私小さい頃よくばあちゃんに連れられてしょっちゅうデパート行ったりしてたんです。電車込みで1時間くらいかけて。しかもデパートって人ごみの中ぶつからんようにとか気にしながらひたすら歩くじゃないですか。大人になってから友達と出掛けたりしたら座ってお茶してる時間の方が長かったりするけど、ばあちゃんとの買い物はまじで体育会系。とにかくデパ地下の魚やら肉のコーナーに並んだり、551やら御座候やらいか焼き買うのにもめちゃくちゃ並んだり。そんで休憩したのってほとんど記憶にないんよね。だいたい全部が終わって家族亭かKYKでご飯食べるときにやっと座れるっていう。
でよ。で、そしたら家帰ると一日中歩き回って行列並んだもんやから足がめちゃくちゃだるくて痛くてなかなか寝れへんくなるわけです。それこそ帰りの電車乗る前くらいから痛い痛いって言い出すくらいで、お母さんとか「この子ひょっとして足悪いんちゃうかしら…」って思うくらい頻発してたんです。
主に痛いのはふくらはぎで、湿布を貼ったり寝ながらお母さんにさすってもらったりして何とか眠りにつくっていうのをやってたんですけど、ここで気になるのがこの痛みの名前なんて言うのん?って。
とにかく痛くて寝れないってわめくからそんな痛いんや…可哀想…と思ったんでしょう。ある日ばあちゃんが「それはこむらがえりやなぁ」って言うたんです。実際ばあちゃんが「うわ!こむらがえりなった!」って言う時はよく自分のふくらはぎ押さえてたし、自分の痛みの名前もこむらがえりやと思い込んでたんですよね。
でも大人になるにつれ「こむらがえり」は「足がつる」と同義で、私のあの痛みとは違うもんやったってことがわかってくるわけです。まぁたぶん私の足の痛みはこれという名前がついてるもんじゃなく、ただただ「歩きすぎによって足がだるい」のちょっとひどいやつ、って感じのものやったんですよね。
言葉の違いをわかった今でも、歩きすぎて足がだる痛くなったらわざと「こむらがえりや…」って思っちゃう(言っちゃう)くらい思い込んでた言葉で。
あのときばあちゃんが痛いと言ってふくらはぎ押さえてた痛みと私の痛みが違うやなんてちっちゃい時は思いもしなかったし、たぶん痛みに違いがあることはその頃からわかってても、その痛みがどういう痛みかなんて本人にしかわからへんのに何で言語化されて伝わってきたんやろうって不思議に思ったんです。
だって、同じ「痛い」の表現でもキリキリとかチクチクとかズキズキとかシクシクとかズーンとかいっぱいあって。自分がズキズキと思ってる痛みが他人にとってもズキズキと表現する痛みかどうかなんてどうやってわかるんやろ、と。たとえばお腹痛くて病院で診てもらったときに「どんな痛みですか?」「胃の辺りがズーンと痛くて…」「あ〜、だったらおそらく〇〇ですね」みたいな会話が成り立つのすごいなぁって思いません?
目で見えるものやったら、「そうそう、これがペンでこれがりんごね」っていう共通認識はできるけど、感情って目に見えないのに何で人と同じように認識できる(できてると思ってる)んやろって不思議に思うんですよ。

好きや嫌いの感情でもそうやけど、自分の思うその感情が、他人の思うそれと必ずしも一致してるとは限らないっていうか、言い切れないと思うんですよね。見えてないのに何でそうやと言い切れるん?ってひねくれ小僧みたいなこと思っちゃう。
でもこういうのって、いろんなことを経験して、自分の今まで知らなかった感情を知って、それを既に存在してる言葉に当てはめるって作業を無意識的にやってるんやろうなとも思います。言葉ってすごいねぇ。オノマトペって便利やねぇ。(ちょっと話変わってきた?)
まぁそういうひねくれ小僧精神はありつつも、歌の歌詞に感動して自分と重ね合わせて泣いたりしょっちゅうしてるから案外チョロいのよ。でもそれもきっといろんなこと経験してこなければ重ならない感情やったんやな〜と、いろんな景色見てこれた自分にナイスと思いながら今日も聴きすぎるくらい聴いてきたaikoで泣けてしまう私なのでありました。




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