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メディア非対称戦争 戦争の視覚的恐怖

想定外、辞書を引くと事前に予想した範囲を越えていること。とされている。この範囲を超える、人の予想を超える出来事、想定外が10年来のマスメディアを介して伝えられる機会が多くなった。英語ではbeyond expectations。フランス語ではau-delà des attentes。想定外、別の謂い方だと人知を超えたと表現される。人間へ相対的に記すと人間主義への絶対的な信頼が想定する主体なるものが現実の自明の理とされる現実社会は強固に人間を信頼している。信頼が人知を超えた出来事への想像力を逆説的には阻んでいる。

想定外10年前の原発事故もそうだった想定外と原発事故直後の報道で新聞、テレビニュースでこの言葉が踊った、暗躍と言い換えるべきか。原発以後の日本と国際社会は無意識レベルで乖離現象を引き起こしている。2011年から2022年の約10年は日本全体が記憶と歴史認識、あらゆる分野に於ける意欲が後退した。原発事故で想起される私の個人的出来事はクラフトワーク。彼らの代表作1974年に発表した『アウトバーン』を那覇新都心のTSUTAYAで購入、帰宅して『アウトバーン』をプレイしテレビ画面をミュートにしてニュースを見ようと思ったら例の地震と津波だった。クラフトワークの間延びした音が10年鳴り響いていた、私なりの10年間だった。その『アウトバーン』はメンバー監修の本格的なリマスター再発版だった。

一切の社会的希望や変革も打ちひしがれる状況、閉塞に歪み。反原発、国会包囲網、シールズ、ハッシュタグデモetc幾度も政治と社会を揺るがす出来事の度毎に運動が動員され、その動員への反動なのだろうか、若年層への運動なるものへの拒否が増々強まっている。その一般的若年層とは背を向けるように進学校の生徒たちの政治/社会への関心は年々高まりを見せている。

先頃休刊が決定した左翼運動&理論誌の情況がリポートしている記事を参照すると高校生たちの社会運動とデモは急増している。全国の揶揄的に表現するとそこそこ勉強ができる高校の生徒たちの運動、デモ、集会がコロナ禍を踏まえて起きた点を強調し記事執筆者の小林哲夫氏は現代の高校生の意識は高いとしているが、日本全体のなかどこまで浸透しているのか不透明な部分も多い。高校生の政治/社会への関心が高まること自体は歓迎するべきだが大学生は大人しく穏健的振る舞いに終始していると小林氏は控えめに記してもいる。こうした動きを歓迎することはやぶさかでない、注視しなければならないのは若き運動のその後だ。シールズの崩壊を見よ、2010年代の社会運動の中心にあったはずの彼らの運動体は制限付きの運動を当初から宣言。かなり保守的振る舞いの運動体であったこと、シールズ訳すると盾なのだから。護憲的振る舞い、守旧的で微温的と受け止められて当然でもあり彼らの全体の主張もどこか既視感/デジャヴを齎す運動だった。消費型指向の若者ベースの思考の先からの運動がシールズと私は考えている。

シールズに限らず数多くの社会的な動きも起きた。けれども運動の動員では社会の変容に直接的に結びつかず運動イメージが却って否定イメージへ翻案されてしまっている。若者の保守化、保守化というよりも左派的イメージへの無意識的反発が若者と言われる層に政治/社会への接続を断絶させている。政治抜きの社会課題や地域課題、NPOなどに関わる若い層は年々に増えている。政治と社会の分離、日本特有に出来事として私は考えている。政治と社会を切り離し一方を無視、一方に情熱的に加担。バランス、この表現は使いたくないけれどもバランスを欠いた認識だろう。真面目で優秀な政治と社会を考えすぎてしまう層がいる、そうした真面目な層の再生産が起きていただけではないのだろうか。真面目で正しくありたいと願う善意溢れる行動が却って足枷になる場合がある。

バランス/公平に物事を見る俯瞰する姿勢を踏まえて社会を思考する視点を持たないと、奇妙な街が出現することになる。歩くことが遠のく息苦しさを街が纏う。公共的意味での公共性が排除性を伴う、現代アートのオブジェが利用者への排除性を担保。

閉塞感は文化ジャンルの話に移行しても変わらない。映画の邦画を例に上げると、90年代から現在に至るまで似た表現が各ジャンル内に表現/製作され悪循環、文化のデフレスパイラルのような現象を引き起こしている。私の専門外なのだがファッションはどうだろう。ファストファッションが隆盛の時代、平均的/標準化した振る舞いと服装は相補的なものになっている。現代は新しさよりある特定行為の枠内を参照しながら自分を見つける。ミクロ的に言葉を言い換えると居場所。

人のいるべき落ち着けるべき居場所が混在している現代社会はミクロとマクロのレイヤー層で構築されている。マクロ的視点にのみ終始しても社会は見えない、ミクロだけども部分的にしか理解できない。この両方の視点が必要なのは言うまでもない。現代社会にこの視点が共有されているとは言い難い。学校の建築構造を例に述べると統制の行届いた作り/構造になっている。どこか逃げ場がないと思わせるような視覚的な権威性。メディアは第四の権力と言われて久しい、メディアは権力の主体として自らの位置付けと立ち位置への客観的に捉えることに失敗している続けている、そう思わされる事態が20年近くも起きている。戦争の報じ方、これから書き進めるウクライナ侵攻に於いてのメディアの報道姿勢はある種の旧態依然。

古い権威性が復活したかのような今回の戦争。

20世紀の戦争のよう戦争が21世紀に起きてしまった、最悪の大惨事。ロシアによるウクライナ侵攻、まるで20世紀の戦争が反復するかの如き現象だ。国家の総力戦の様相を呈している、国家が一丸となって戦争へ国力を注力する総力戦はけして古い概念ではなく第一次世界大戦に始まったことなのだ。総力戦については後程詳しく述べる。メディアを介して伝わる今回のロシアによるウクライナ侵攻はまさしく現代的テクノロジーと古典的戦争形態の悪しき野合と指摘できる。ゲンロンの東浩紀氏はロシア/ウクライナ侵攻が始まった当初「ウクライナのゼレンスキー大統領はヘーゲル的意味でナポレオン的な存在」と述べていた。アメリカをはじめとする各国がウクライナへの連帯を表明しロシアのプーチン大統領を批判する言説が多数を占める。

それがメディアを媒介して悲惨が増幅され伝えられる。悲惨であることの歴史の反復、今回の戦争は何を意味するのだろう。国内外の著名人がこの戦争へ反応している、例えばU2彼らはいち早くウクライナの場所は忘れた、どこかの避難所に駆け付け2曲ほど避難生活を強いられているウクライナの人々の前で歌う。善意溢れる行動だろう、彼らの善意は薄気味の悪い印象も同時に持ってしまった。メディアで捉えられる行為がSNSでどのような形にゆがめられ伝わるのか現代社会は意図が歪んで伝わることが前提になりつつある、個人単位が政治を情動的に発露できるメディア装置SNSが一人一人の市民が表現できるようになった時代のメディア構造は20年前とは比較にならないほどに個人が情動がネットのミームになりやすい、大衆迎合がある種の奇妙な形で完成された。湾岸戦争時にフランス現代思想のボードリヤールは『湾岸戦争はおこらなかった』と題した奇妙極まりないタイトルを持つ本を湾岸戦争直後に刊行。本旨を纏めると遠隔地操作のみで完結した戦争は前時代の戦争とは大きく変容しメディアの視覚的が戦争形態になっている。戦争は画面の中で起きた、しかし画面の中での戦争は起きなかった比喩的に記している。デバイス上で完結した戦争形態は人間の視覚的な意味で旧来的な戦争形態を終結させた。

ロシア/ウクライナ侵攻の真っただ中に奇しくも先頃旧ソ連元大統領ゴルバチョフ氏が亡くなった。西側では冷戦構造を終結に貢献してノーベル平和賞を受賞、しかしその平和も相対的で勢力均衡の上の状況での平和なのだから矛盾している。戦争指導者が平和賞を受賞する事態は戦争の不条理性を浮かび上がらせる国際社会の行為だろう。

世間的に国際的にはゴルバチョフ氏の評価は概ね冷静構造の終結に貢献したことが過大に指摘される。しかし立ち止まって考えるべきはゴルバチョフ氏もソ連の強化の為に改革=ペレストロイカを断行したのであってソ連弱体化を意図したわけではないこと。その後の情報公開=グラスノスチも上からのペレストロイカ路線をなぞらえるもの。

冷戦(英語ではCold Warロシア語での表記はХолодная войнаとなる)とはそもそも何だったのか。文字言語上での微妙な差異も横たわる。

きっかけは第二次世界大戦後の国際社会の目まぐるしく変わる国家間の利害関係だ。ある国際政治学者の見解では冷戦は第三次世界大戦だった。テロとの戦いを第四次世界大戦と考える論者もいる。国家を壊滅的打撃を被るほどの大量破壊兵器を二つの国家が持ちお互いの兵器を使用しない極限的な勢力均衡状態を指す。極めて歪な力の均衡状態だったのが冷戦の実態、冷戦の当事国同士は相まみえることなく代理的な意味での戦争/紛争は度々引き起こされている。社会主義陣営内部にも微妙な温度差も生まれていた。スターリン亡き後のスターリンの指導体制への批判/反省がフルシチョフによるスターリン批判という形で現出。

18世紀の哲学者カントは『永遠平和のために』で戦争を防ぐ手立てとして具体と抽象を織り交ぜながら哲学者の平和構築案、世界連邦政府を主張した、発表当時の夢物語だとされた。だが第一次世界大戦後に総力戦への批判意識から国際連盟が作られる。哲学者カントが『永遠平和のために』で主張した世界政府が半ば実現しそうな流れに。20年代後半からの世界的不況の流れを決定づけたアメリカで引き起こされた世界恐慌。失業の増加、ストも増え、アメリカ共産党主導の組合運動も多発。一時は内戦の様相を呈する事態だった。

戦争の形態は近代以前と以後に大きく分かれる。国家概念がフランス革命以後に於いて王家への求心的な意味合いが戦争への原動力であった。絶対主義=アンシャンレジームの時代の戦争形態は第一次世界大戦で過去のものになり変わって全面化したのが国家による総力戦。国家の総力戦とは些か趣がことなり近代以前の戦争の在り方は保護限定された戦争。

今回のロシア/ウクライナ侵攻、メディア理論/分析をヒントに考えてみたい。

国家と国家がSNS上で情報戦争を仕掛ける。この有り方に筆者は違和感を覚える。SNSは誰もが平等にアカウントを作れるソーシャルメディア。ホワイトハウスからテロリストまで自由にアカウントを作れる。誰もが自由にアカウントを所有し情報発信をする、発信の欲望は個人単位だとグルメ、ファッション、ライブ会場。一律に誰もが作成できるアカウント、SNS時代の大きな落とし穴、誰もが平等で誰もが今すぐ操作可能。操作可能なのだから一民間時もホワイトハウスのTwitterアカウントを閲覧できるしまたホワイトハウスの職員も一民間人のTwitterアカウントを閲覧できる。20世紀ならば考えられない時代的変容、国家と個人が即時的に繋がる、IT技術の進展により国家と個人の関係性も質の変容が無意識レベルで生じている。IT技術の発展が国家と個人の距離を縮減した。Twitterと呼ばれるSNSサービス上の画面内で個人アカウントも国家アカウントも同列にサービス内で呟きを展開する行為にを見るにつけ人間にはある種の現実の生活形式をなぞらえて行為発動するらしい。人と集団の距離は隔たりが増幅されている部分と縮まっている部分、両義的な要素が顕在化している。

顕在化と言えば聞こえはいいかもしれないが、自宅のパソコンで容易に手軽に国家規模の情報戦が垣間見れる事態とは一体どういうことなのだろう。

現代の戦争の恐怖は自宅に居ながらにして即時的に他国の戦争を知ることができること、その戦争への認知にも歪みが生じている。

現代のテクノロジーに進化/発展が戦争のイメージを著しく変容させ/させ続けている。今回にテクノロジーと戦争について論も今後も発展的に記す予定。




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