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歌人だったじいちゃん

忘れもしない、私が中学3年の歳の3月19日。

「推薦を 孫は否みて 試験受け 合格果たせり 我が誕生日に」

高校受験の合格発表の日に、祖父が謳ってくれた短歌。

じいちゃんと食パン

私がまだ実家で過ごしていた頃のある日、我が家にホームベーカリーがやってきた。
早速母は食パンを作って、近所に暮らす祖父母に振る舞った。
祖父は、穏やかで口数が少なく静かな人だった。そんな祖父が、その食パンをやけに嬉しそうに食べたという。母は珍しく思って「どうしたん?」と聞くと、こんな話をしてくれたそうだ。

戦後、シベリアに抑留されていた際に開かれた短歌大会。
本の虫だった祖父は、その短歌大会で優勝。賞品は食パンが1斤。
祖父の性格からすると、周りの仲間と分かち合って食べたであろう景色が思い浮かんだ。しかし実際は、お腹が空き過ぎていて賞品の食パンを貪るように1人で平らげたらしい。ものすごく嬉しかったそうだ。
辛抱強く静かな祖父が、過酷で壮絶な日々の中で感じた小さな喜びを噛み締めていたかと思うと、とても胸が苦しくなった。

今年、祖父が他界して10年が経った。私は、母からこの話を最近になって聞いた。きっと、祖父がこの話をしてくれた当時も、私はこのことを聞いていたかもしれない。でも、改めて聞いた最近の方がこのエピソードがくっきりと際立つ不思議。

帰還後のじいちゃん

シベリアでの短歌大会がきっかけだったかは、もう確認はできないけれど、祖父は生涯短歌を続けた。
毎日決まった時間に机に向かい、本や短歌をよむ。日記も欠かさずしたためていた。つまり言葉と対峙していたのだ。いろんな短歌大会にも応募してはたくさんの賞を受賞して、祖父母の家の床の間は賞状やトロフィーで埋め尽くされていた。
2005年には、俵万智さんの句から始まるこちらのブログにも名を連ねた(9番目が祖父)。懐かしいサイト、まだ残っているなんてありがたいな。
短歌の入賞作品をコラージュしてスクラップするのも祖父のルーティン。今となっては、このスクラップバインダーが祖父の生きた証となって残っている。

スクラップはこんな感じ
私が学生時代には、手紙に添えて送ってくれていた
※牛と一緒に写っているのはじいちゃんではない笑

短歌を生涯続けられたモチベーションが何だったのか?生前の祖父に聞いていたら答えてくれただろうか?
静かな人だったから、これといった答えは聞けなかったかもしれない。
でも、聞かなかったことは、この先もずっと後悔するんだろうな。

私の高校受験 合格発表の日

私の高校受験は、本当に合格できるかどうか危うい成績だった。
担任の先生は、志望校を下方修正して推薦することも提案してくる始末。
それでも私はどうしても志望校に行きたくて、推薦は断った。
というより、下方修正したところで推薦してもらえる学力を満たせていたとも思えなかった。家族も私の意志が変わらないことはわかってくれていた。

そんな状況での合格発表当日。この日は祖父の誕生日でもあった。
おそらく、家族の誰にも言わずに、誰よりも先に高校に出向いた祖父。
掲示板に表示されていた私の受験番号を確認して写真を撮り、現像までして帰って、すぐに机に向かったのだろう。
私が祖父母の家に合格を報告しに行ったときには、もうこの句が出来上がっていた。

静かに応援はしてくれていただろうけど、祖父がこんな形で喜びを伝えてくれるとは夢にも思っていなかった。祖父からの、この上ない愛情を受け取った15歳の春の出来事は、何年も経った今も色褪せていない。

ライターになると決めて思うこと

どうしてライターになったのか?この先もずっと考え続けると思うけれど、ルーツのひとつには祖父がいる気がする。なんとなくだけど、この先もずっと心の支えになってくれる気がしている。
祖父が生きているときに私がライターになっていたら、もっと祖父と「書く」ことについて話をしてかな。少なくとも、私は祖父に聞きたいことがたくさん湧いていただろう。
それが叶わない今は、聞きたいと持ったことのこたえを探りながら、せめて祖父に喜んでもらえる仕事をしたい。私が祖父からもらった愛情を、いつも味方にして。

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