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名前を付けた牛と付けていない牛とは何が違うのか

 2021年の6月に生まれた雄牛。お世話になっている農家さんのもとに生まれたこの雄牛に、縁あって名前を付けさせていただくことになりました。その名も「大悟」。今回は、大悟との出会いと、約9ヶ月と、お別れのお話。

□「大悟」との約9ヶ月

りんごの木

 大悟が生まれたお家の阿部さんご夫婦は、牛だけではなく野菜や果樹も育てている農家さんで、大悟が生まれた6月の時期は、りんごの摘果のお手伝いをしに行っていました。作業しながら奥さんの恵美子さんから「もうすぐ生まれそうな牛がいるの」と聞いていたので、作業後に牛小屋を覗き込みに行くと、お腹の大きなお母さん牛が。その日の夜「生まれたよ!」とのメッセージをいただいて、翌日日中の用事を終えた夕方に駆け付けました。

 前日まで見ていた、あの破裂しそうなくらい大きかったお腹からこの子が生まれたんだなあと思ったら、なんだかとても感慨深く感じて、しばらく子牛と母牛を見比べては眺めていました。言葉でのやり取りは当然ないわけですが、その分仕草から感じられる親子関係のあり方は、じーんとくるものがありました。

生まれた次の日の大悟と母牛

 すると突然恵美子さんが「名前付けて良いよ!」と言ってくれたのです。予想外の展開にどんな名前を付けたら良いのか分からず「どうしようどうしよう」と頭の中をぐるぐるさせていたのですが、聞いてみたところ、立派な牛に育つようにという意味で、男の子は「大」「長」「太郎」のように昔から長男に付けるような名前の漢字を使うことが多く、女の子は花の名前などが多いような印象とのこと。そこで、私は「大、大、大・・・大悟!」と決めました。単にお笑い芸人「千鳥」の大悟が好きなだけではありましたが、スキャンダルがあっても売れている芸人さんだから「大悟」という名前にも良い運気があるのではと思ったのもありました。

 そして、この日からお家に遊びに行くたびに大悟に会い、あるいは用事がなくても大悟に会いにお家に遊びに行き、という私と大悟の9ヶ月が始まりました。

□牛にも「気持ち」がある


 ご自宅の奥にある牛小屋は、入って最初は大御所お母さん牛たちが並んでいます。まずはその皆さんに「やっほー」「来たよー」「元気ー?」と話しかけながら入るようにしています。すると牛さんたちも私の方を見て「また来たかー」「特に変わりないよー」「お前誰だっけ?」など牛さん毎にさまざまな表情を見せてくれるのです。

大御所ゾーンの牛さんたち

 奥に進むと少し大きくなった仔牛たちのゾーン。そしてさらに進むと親子牛のゾーン。大悟も生まれてしばらくは母牛と共にそこにいました。しかし、母牛の母乳があまり良くなかったらしく、幼いうちに下痢が続いてしまうようになったため、早めにお母さんから離れた仔牛たちのゾーンに移りました。

 大悟は生まれた時からシャイでおとなしい性格でした。「大悟ー来たよー」なんて言いながら近寄ってみるものの、ビビって後退りしながら隅っこに行ってしまったり、触ろうと手を伸ばしても触らせてくれなかったり。でも、その警戒しつつもこちらを見るつぶらな瞳が可愛くて、ずーっと見ていられました。目線を合わせてしばらく見つめていると、ようやく興味を持って、ほんの少しだけ寄ってきてくれたり(でも触れない距離だったり)もしました。

少しずつ興味を持ち始めてくれた頃の大悟

 最後の2ヶ月くらいでしょうか。私がいつものように、入り口のゾーンから「おはよー」「また来たよー」なんて言いながら仔牛たちのゾーンに行くと、大悟はすっと立ち上がって、手前に来てくれるようになったんです。そして頭から鼻の上あたりを撫でるのを大人しく受けてくれました。たまたま横にいた、元気な九州娘の牛ちゃんがかまってちゃんでめちゃくちゃ舌を伸ばしながら邪魔しに来るのですが(笑)それでも大悟は逃げずに撫でられてくれました。

 この九州娘の牛ちゃんを見ていても、牛にも性格があるんだなあとしみじみ思いました。こちらの勝手な解釈だから真実は分かりませんが、それでも、牛にも「気持ち」があって、警戒したり、試したり、信用し始めたり、ちょっとしかいないと「もう帰るんかーい!」って拗ねたり、それでも慣れてくれて「付き合ってやるよ」みたいに相手してくれたりしているような気がしました。

□出荷、別れ、初めての感情


 3月16日、大悟の出荷の日。名付け親にさせていただいた時から、出荷の時はついて行くと決めていました。朝出発前に合流すると、すでに大悟は出荷の車に乗った後で「大悟は大人しく乗ったよ〜」と恵美子さんから教えてもらいました。そこから出荷場まで行き、大悟を探しました。初めてでしたが、たくさんの牛さんたちが並ぶ光景は、迫力がありました。

出荷場で並ぶ大悟とその他の牛さんたち

 大悟のもとに行くと、見知らぬ場所で、見知らぬ牛と人間に囲まれているからか、両隣が女の子だからか、心細そうにいる大悟。普段からほとんど鳴き声を聞いたことはなかったのですが、この日は何度か鳴きました。その鳴き声の、なんと語尾のか細いこと・・・。連れてきてくださった阿部さんご夫婦が最後のブラッシングなどをしている間も、何かを感じ取っていたのか、不安や心細さを表情にしていたように見えました。競が始まる時間までは、また鼻の上のあたりを撫で続けました。

 「そろそろ行こうか」と声をかけられ、旦那さんの博之さんは大悟と共にいながら、恵美子さんと私は競の会場へ。初めて観る競は新鮮でした。牛が出てきては値段が付けられて引き渡し場へ連れて行かれる、また牛が出てきてはまた値段が付けられて引き渡し場へ、の繰り返しです。人気の親牛だったり、短い期間での成長率が高かったりすると値段が比較的高い傾向にあるようですが、どんな牛を育てたいかによって競で購入する牛のレベルも異なるそうです。探り合いながらも勝負している熱気、察する空気感など、競特有と思われる雰囲気が漂っていました。そのテンポの良さに、私もお別れを寂しがっていた感情がいったん引っ込み、大悟が出てくるまでの牛さんたちの値段を眺めながら、その時を待ちました。

競中の大悟

 いよいよ大悟が出てきました。あのシャイな大悟が、なんと勢い良く飛び出すように出てきました。そして、少しジタバタしつつも、立派に立っていました。祈るように見守る中、阿部ご夫婦の予想より高い値段が付いて、他と同じく流れるようなテンポで引き渡し場に向かいました。あっという間でした。分かってはいたけど、あっという間に大悟に値段が付きました

 競が一段絡したところで、会場を出て大悟と最後の別れをするために引き渡し場まで行きました。大悟はまたさっきとは違う場所に繋がれ、さっきまでと違う牛さんたちに囲まれ、困惑しているように見えました。またか細い声で鳴きました。また私は鼻の上のあたりを撫でました。阿部さんご夫婦が関係者の方々と軽く立ち話をしている間、撫で続けました・・・が、その時間はすぐに終わりました。

引き渡し場に繋がれている大悟

 もう、長々とここにいても仕方ないことが私にも分かりました。博之さんが先に一歩二歩とその場を発ち始めました。本当のお別れの時が来ました。最後はただ「バイバイ」と言うことしかできませんでした。いつもは「バイバイ、またね」と言っていましたが、この時はもう「またね」と言えませんでした。大悟に背を向けて歩き出した途端に、ぐっと込み上げてくるものがありました。そして会場を出て駐車場の車に向かいながら、じわじわと涙が滲み出てきました。

 この時の感情をなんと説明したら良いのでしょう。「寂しい」「悲しい」もあるけど、一方でこれも私たちが生きる上で欠かせない産業であると割り切れている自分もいる。その狭間にいながら、込み上げてきたもののに思考がまだ追い付かないような感じがしました。まるで、友達になった牛さんと訳も分からないままバイバイしなきゃいけなくなった、親に手を引かれる幼稚園児くらいの子どもになったような気持ちでした。実際は頭で分かっていることが多いのに、感情がそのドライさを認めないような感じがしました。これが生業だと毎回泣いてもいられないんだということも分かっていますが、この日はやっぱり込み上げるものを抑えられませんでした。

 この時込み上げてきた感情と涙は、初めてのものでした。今もうまく言葉にならないけど、うまく言葉にしなくても良いと思っています。きっと、この日の感情を忘れることはないでしょうから。

バイバイ、大悟

□それでも私は、牛肉を食べる


 競の時、私は「高い値段が付きますように」と祈っていました。ただ、私は牛飼いではないし、売る側ではないから、この祈りの意味は「高く売れますように」ではなく「大悟に高い価値が付きますように」だったんだと思います。「大悟」という名前を付けたこの思い入れのある牛に、少しでも高い価値を見出して欲しかったのです。

 しかし一方で、いくつかの矛盾が同時に湧き起こります。これだけ可愛いと思ってきた大悟に「値段」で価値を見出すのが正しいのか。いや、同じ牛なのに大悟と大悟じゃない牛で差を付けることすら間違っているんじゃないか。名前を付けたか付けてないかで牛の命への価値観変えて良いものか。そもそも牛飼いでもなく世話したわけでもない私がこう願って良いのか。値段が付いて去って行く大悟に「寂しい」と思う私も肉を食うじゃないか

 私は牛肉が好きです。焼肉も好きです。牛煮込みも好きです。どんなに大悟が可愛くっても「もう牛食べられない」とはなりません。もしそうなっても、それは綺麗事になってしまう気がします。私たちは肉を食べるのです。きっと大悟の肉が目の前に現れても、食べると思います。牛に限らず、豚も、鶏も、羊も・・・そうやって私たちも生かされているのです。でも、何とも思わないわけではありません。今までも、ある程度一次産業と関わるようになってからは、命をいただいていると意識するようになっていました。しかし、大悟との出会いは、一層私にその思いを強くさせました。

私は、牛肉を食う

 大事なことは、私たちがしていることは、自分たちが生きて行くためにしていることは「肉を育てて肉を食う」のではなく「牛を育てて牛の命を食う」ことなのだ、ということでしょう。命あるもの、そして「気持ち」のある生き物を育てて、その命を奪っているのだということです。そして「可哀想」なんて言えるまでもなく、私たち人間の多くがそれによって生きているのです。これは牛に限らずです。何事も、命を育てて命をいただいているのだと。動物のみでなく、植物も。

 動物を殺してはいけないと訴える一方で、人間が「食用」と決めた命は食べるためにその命を奪うことが許されているのです。“許されている”のは誰に?そう、人間にです。なぜ犬や猫を殺すと残酷で、牛や豚や鶏を殺めるのは当たり前なのでしょう。結局私たちは、人間は、自分勝手に「食用」を決めて、その命をいただいています。あるいは環境を守ろうと言っている一方で、人間の生活に必要な道具やエネルギーのために木を伐ります。地球を壊しているのは、私たち人間なのだと、改めて思い知らされます。それでもやっぱり、肉を食べるし、木を伐る生活をします。それならば、その分感謝して、地球に恩返しをしなければならないのではないか、そう思いました。
 出荷場を出て、近くの中華屋に行きました。メニューが豊富な中華屋で、ご飯ものも麺類もいろいろありました。そんな中、ふと「牛肉麺」が私の目に入りました。そして、それを注文しました。今こそ、今この感情の中でこそ、牛肉を食べようと直感的に思いました。感謝していただくって、言葉では簡単だし、そのうえで感謝しているつもりにはなるけど、今こそ「感謝していただく」がリアルに分かるんじゃないかなと思ったんです。

お別れの後に食べた牛肉麺

 牛肉麺をすする横で「大悟が肉になるのは2年後くらいかな」と博之さんが言いました。私はそれを聞いて、2年後の大悟にも恥じないように、大きな理の中にあるうちの一つでしかない「人間」として、山や畑と関わりながらも今よりももっと生命と向き合える、そして生命を全うできる私として生きていたいなと思ったのでした。

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