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【シン仮面ライダーネタバレ考察】シンのヒーローとは何か? 信念と正義、そして優しさの物語

はじめに

特報が出てから待ちわびたシン・仮面ライダーに、ここまで頭を巡らせることになると、「ご期待ください」の文字とイメージビジュアルだけを目に焼き付けていたあの日の僕は知る由もなかった。
特報のポスターに表現されていた傷を負いながらもただまっすぐ立ち向かう、コートを身にまとい真紅のマフラーをなびかせる仮面ライダー。そのイラストを一目見て、僕はこれを見るまで死ぬことが出来ないと、まさに思ったのだ。

放映されてから、計2回見に行った。通常の劇場公演と、しばらくたってからの映画館同時中継の大ヒット御礼舞台挨拶の回だ。
映画を見ての率直な感想は「最高の映画だ。しかし何か、引っ掛かる」だった。読み解けないモヤモヤか、仮面ライダーファンとしての庵野監督との解釈のズレか。とにかく興奮と同時に頭にかかった不確かなもやがぬぐえなかった。
そこから雑誌の特集、初代仮面ライダーの傑作集、パンフレット、クモオーグ編の映像、ドキュメンタリーへと手を出し、更に2回目を見に行った。

そうして導き出された結論が、「これは二人の男が ”シンの仮面ライダーというヒーローになる” までの物語だったのだ。という結論だった。

前置きが長くなったが、今回は上映からずっと頭を巡らせてきた仮面ライダーとは何か、シン・仮面ライダーとは何だったのか。という考えについて、考察や僕自身の感想を交えて語っていこうと思う。

仮面ライダーの魅力について

シン・仮面ライダーを語る上で欠かせないのが、オリジナルの仮面ライダーという作品であろう。
頭脳明晰、スポーツ万能の青年「本郷猛」は、ある日悪の秘密結社ショッカーに改造手術をされ超人的な肉体を手にする。改造が脳まで及ぶ前に逃げ出した本郷は、人々のために己の異質性に苦悩しながらも"正義のヒーロー"として戦っていく物語だ。

僕は平成仮面ライダー直撃世代なので、リアルタイムでは見たことはないが、先でも言ったように傑作集のストーリーはいくつか見た。
平成ライダーにも継承されている、圧巻のアクションシーンと悩みながらも人のため戦う人間ドラマは、初代から強烈な光を放っていた。

そして仮面ライダーの面白さが何よりも、「世代を通して愛せる作品である」ということであると僕は思う。

世代を通してというのは、子供から大人までということももちろんそうだが、何よりも ”子供の頃から大人になってまで" 楽しめるということが何よりのポイントだ。

子供たちはテレビの前で憧れのヒーローが痛快なアクションで戦っている様に心を躍らせる。
平成ライダーのDVD特典映像には、バトルシーン集というのもあるくらいだ(僕自身も、小さい頃にはバトルシーンだけを何度もかじりついて見ていたのを覚えている)。それくらい、仮面ライダーのアクションには子供たちを釘付けにするカッコよさがあるのだ。

そして大人に届くのは、アクションシーンに引けを取らない深い人間ドラマである。初代から一貫しているテーマであるのが、「仮面ライダーの出自は敵組織と一致する」ということだ。
初代の仮面ライダーでも、まさに仮面ライダーの力はショッカーの改造手術で生まれている。悪から生み出されたその力を "人々のために" 使って戦っていく。
人間とも悪とも言えない、非常にアンバランスな位置で葛藤して戦っているからこそ、仮面ライダーたちの物語には胸を打つ人間劇が生まれている。

今でも覚えているのは、高校生の頃に見た「仮面ライダー鎧武」で受けた衝撃だ。
あの頃は年齢的な部分もあって仮面ライダーからフェードアウトしようと思っていた時期だったものの、フルーツが落ちて仮面ライダーになるという奇想天外な変身シークエンスに驚き、気づけばテレビ放送を見ていた。
だが、脚本家はまどマギで知られる虚淵玄だ。ストーリーは容赦なく、そして高密度に積み上げられた深いドラマだった。
ダンスステージという小規模な力を求めるアーマードライダーの戦いは、次第に本当の側面を見せていく。ヘルヘイムの浸食から人間たちが生き残るためにシステムを作っていたというその事実に、主人公は真っ向から抗っていき、やがて本当の怪物になっていく・・・。
自分が自分でなくなっていくことの恐怖におびえながらも、自分が信じた、守りたいと思った世界のために、涙を呑んでライバルを倒す、最終バトルは今でも脳裏に鮮明に焼き付いている。

仮面ライダーは、異質の力を持ちながらもその胸に抱えている想いや魂は人間のままなのだ。人間だから悩み、もがき、苦しみ、乗り越える。
決して超人ではなく、ボロボロになりながらも前を向き戦う、シン・仮面ライダーのポスタービジュアルで描かれたあの姿こそが、大人になっても魅了する、いや大人になり一層好きにさせてくれる仮面ライダーという "ドラマ" の魅力なのだ。

シン・仮面ライダーの描くアクションとドラマ

そうした歴史を背負い放映された、シン・仮面ライダー。
まさしくそこにも "アクション" と "ドラマ" を描き切った仮面ライダーという作品があった。

最大の驚きは、仮面ライダーである本郷猛の葛藤が色濃く描かれている部分と、そのドラマ性に引けを取らない圧倒的なアクションシーンだ。

本郷猛は、原作通りショッカーにさらわれて改造手術を受けた仮面ライダーだ。昆虫合成型オーグメントとなった本郷は、自身のことを知り改造手術を施した張本人である緑川博士に、娘のルリ子を託される。彼女を攫うクモオーグとの死闘に勝利した本郷は、彼女と共にショッカーに改造されたオーグ達との戦いへと進んでいく。

ストーリーを通して一貫して描かれるのが、主人公である本郷の "自身の力" と "ルリ子の想い" に対する向き合い方だ。

突如与えられた仮面ライダーとしての強大な力、そしてその力への恐れ。これを主演の池松による "震え" の演技で魅せてきたのは大きなインパクトであった。
先にも述べたように、仮面ライダーの物語でも大きなテーマとなるのが "苦悩と葛藤" である。そこに対する表現は抜かりなく丁寧に描かれたのは印象に残った。

さらにシン・仮面ライダーでは "ルリ子の想い" にもスポットが当てられていた。
彼女の出自もまたショッカーでありながら、緑川博士とともにショッカーの目指す世界に争う決意をして戦っている。
敵であるオーグのほとんどが、ルリ子に所縁のある人物であったのも、非常に印象的だ。おじさん、友人、兄弟…。徐々に関係性も深まる中で、説得しても届かない、それでもルリ子は「その理想は間違っている」と戦っていく。彼女の想いに応えて本郷も共に戦っていく。その2人の掛け合いもドラマとしての魅力であった。

そしてそんなドラマ性を凌駕するほどのアクションは、仮面ライダーのバトルシーンを望む1ファンとして感動的だった。

CGを使った大迫力のライダーキックに、追告を見て興奮した人も多かったのではないだろうか。仮面ライダーの "風のエネルギーを力に変える" という特性を利用した空中戦の末に放たれる空からのライダーキックは、その魅力を余すことなく引き出していた。

さらに変身シーンも印象的だ。怪物に近い力への変化という異質性を顔の変化で表しながらも、バイクやメットの変形シークエンスで仮面ライダーへの変身への興奮感も出していた。何度変身シーンを見ても、変わることのない感情の昂りがあった。

そして最後の一号、二号、チョウオーグとの泥試合も個人的には良かった。
言葉と力での戦いは、平成仮面ライダーでもラストシーンで多く起用されている。先で述べた仮面ライダー鎧武でもそうだった。血みどろの最終決戦で思い出すのは、仮面ライダークウガのンダグバゼバとの雪の中での戦いだ。
ボロボロになりながらも、血みどろになりながらも、正義のために戦うというシーンは、やはりいつ見ても胸を熱くさせる。

以上のように、シン・仮面ライダーは強烈に印象に残る仮面ライダー映画であることは間違いなかった。

感動と共に押し寄せた違和感…仮面ライダーとは何か?

そんな感動を胸に劇場を出てからしばらくして、心の中で少し靄がかかった。
劇場を出て感動一辺倒で帰宅した「シン・ウルトラマン」の時とは違い、何か引っ掛かるものがあったのだ。

確かに面白かったのに、どうしてこんな気持ちになるのだろうか…。考えつくした結論、わかったのが「これは仮面ライダーというヒーローになるまでの物語」だったのではないか、ということだ。

物語のラスト、本郷はプラーナをマスクに移し、一文字と共に「仮面ライダー2+1号」として戦場へと赴く。その姿は正に窮地を乗り越えて共に新たな仮面ライダーとなった感動的な結末だった。
それと同時に、あそこで新たな姿に変わったことには、大きな意味があると思う。そしてそれが、彼らが本当の意味で「仮面ライダー」というヒーローになった瞬間だったのではないか、と僕は考えた。

オーグと限りなく類似する本郷という戦士

まず初めに僕の結論から述べようと思う。
本郷はチョウオーグ戦で自身の身体を失うまで、戦いに対する目的意識はオーグと近いと僕は考えている。

理由としては、行動原理も戦う相手もルリ子1人に固執していた、という1点に尽きる。

原作と違う精神プロセス、使命を託され仮面ライダーとなる

行動原理がルリ子に固執している点について、わかりやすいのが仮面ライダーとして戦う前のプロセスの違いだ。
原作では、緑川博士と話す中で「人間の自由のために戦う」と話している。一方で今回のシン・仮面ライダーの本郷は、緑川博士から「組織を倒す我々の計画を手伝ってほしい」と頼まれている。つまり、戦う動機の発端が、自主的か否かという大きな違いがあるのだ。

更にシン・仮面ライダーの本郷は、クモオーグによって緑川博士が殺される中で、「ルリ子を頼む」と託される。
本郷は「組織を倒す計画を手伝う」「ルリ子を助ける」という2つの使命を、緑川博士から託されるところから、仮面ライダーとしての戦いが始まっているのだ。
さらに言えば、真紅のマフラーというトレードマークと仮面ライダーという呼称を使ったのも、この使命を託された後になる。

つまり、本郷が仮面ライダーとして戦う最初の行動原理は緑川博士から託された使命であったのだ。

彼が負った絶望とリンクする仮面ライダーとして戦う使命

オーグ達は自身の力を個人のエゴに使っている、と緑川博士は語った。彼らの行動原理は幸福の追求であることからも、それは言わずもがなであるわけだが、果たして同じオーグである本郷はどうだったのだろう。

そこも、僕は本郷自身のエゴのために使っていることに近いと思う。

本郷は、警察官である自身の父親を殉職で亡くしている。そしてそこから、死の間際まで人のを想える優しい父に憧れ、その反面、父とは違い自身の持つ力を正しく使えるようになりたいと願っていた。
仮面ライダーとなったことで、本郷は求めていた力を手に入れて、その力でオーグ達を倒していく。
その行為は悪を倒す=正義としての戦いであることと共に、求めていた「正しく力を使う」という願いをかなえていることにつながっているのだ。

もちろん、その行為自体でヒーロー性が欠かれるという暴論を述べたい訳ではない。
本郷は明確に人々を救うための戦いをしていることに他ならないし、核となる本郷の行動原理は先で述べた緑川博士の使命であるからだ。
自身の幸福のために戦うのではなく人のために戦う彼には、確かに強いヒーロー性は存在している。

サソリオーグとK.Kオーグの存在が示す、本郷の戦う意義

そしてもう一つ述べたいのが、本郷が戦う相手についてだ。作中本郷は多くの敵を倒すが、その戦いの全てが共通して「ルリ子を助ける」ということに繋がっているのだ。

最初に倒した敵であるクモオーグに関しては、正真正銘ルリ子を助けるための戦いである。ショッカーに攫われようとしているルリ子を助けるために、本郷はクモオーグを倒した。
さらに後に戦ったコウモリオーグ、ハチオーグ、チョウオーグについても、ルリ子の知る彼らの野望を阻止するため=ルリ子の望みを叶える手助けのために戦っている。
ここからもわかるように、本郷の戦ったオーグ達はどれも共通して「ルリ子を助ける」というもう1つの意味があることがわかる。

そしてここで述べたいのが、彼が倒さなかったサソリオーグとK.Kオーグの存在だ。この2体は本郷ではなく政府機関と一文字が戦い倒している。
この2体に関しては、ルリ子を助けることへの繋がりが薄いことも、作中で倒さなかった一因なのではないだろうか。
というのも、作中サソリオーグとK.Kオーグがルリ子の知り合いであると語られた場面はない。そのため、ショッカーの野望を阻止するという目的と一致しても、ルリ子との関係性という意味では希薄な存在であるのだ。そのため、より本郷の「ルリ子を助ける」という行動原理を強調するため、あえてこの2体に関しては戦いにすら関わっていないのではないのかと思う。

ちなみに、K.Kオーグに関してはルリ子の敵討ちにつながるといえなくもないが、それをしても「ルリ子を助ける」という本来の行動原理とそれてしまうので、敵討ち的にK.Kオーグを殺すことは、本郷の行動原理とは違ってくるのではないか、と思っている。

オーグと近い行動原理を取る本郷は "仮面ライダー" になりきれていたのか

以上のことからは、本郷はその優しさと正しく力を使いたいという信念で戦っていたことがわかる。
そして先で述べた違和感に戻るが、彼は果たして仮面ライダーと慣れていたのだろうか。

悩んだ末の結論だが、本郷の中に人々のために戦うという「正義」の側面が弱い点で言うと、まだなりきれていなかったのではないかと思う。

それを象徴する場面として捉えているのが、人々が犠牲となった際の本郷の反応だ。大きく「コウモリオーグに偽ルリ子の人々を消される場面」「ハチオーグに人々が操られている場面」「チョウオーグにプラーナを奪われた人々を目撃する場面」で、本郷はショッカーの犠牲となっている人々を目撃している。
コウモリオーグの場面では「なんてことを」とは言って怒りを覚えているものの、非常にシンプルにその場面は描かれている。そして後の2つに至っては、本郷はそれらしき怒りを抱いてはいないのだ。

このことからも、本郷は人々という大きなゾーンになった時に、その正義の心や行動が非常に薄く描かれている特徴がある。そして「人類の味方」と名乗った一文字とは違い、本郷は「人を守りたいと思う」と小規模な言い回しに留まっていた。
それがまさに、「ルリ子を助ける」という本郷自身の行動原理とリンクしており、またそれと同時に、人々のために戦うという正義の側面にまで至り切れていないのではないか、と思った。
(結果的に人々のために戦うことに繋がってはいるものの、だ)

すなわち、シン・仮面ライダーでの「仮面ライダー=本郷猛」は、ルリ子を助けるという1人を背負った戦いをしており、それは仮面ライダーとしてのヒーロー像というよりも、父親のような、一人物から見たヒーロー像に近いのではないだろうか。

「人類の味方」と語った一文字は、仮面ライダーというヒーローであったのか

そうなると当然発生する疑問が、一文字の存在である。彼自身は「人類の味方」と自身で語っていることからも、人々のために戦うという正義を抱いて戦っていることは間違いないから、彼は仮面ライダーというヒーローになれていたのではないか、と。

だがこれに関しても、2号時点での彼はそうでないと思う。

その大きな理由が、彼が仮面ライダー2号となった際の「継承」だ。
一文字はルリ子から洗脳を解かれて仮面ライダーとなったが、その際にルリ子から「本郷を助けて」と言われているのだ。
先で述べた本郷の行動原理と同様に、仮面ライダー2号となった際の使命が「本郷を助ける」ということであるのならば、やはりこれも一人物から見たヒーローとなる。

またもう一つ、K.Kオーグとの戦いの後に、本郷と別れる場面での、政府との関わりの拒絶も理由の1つとなるだろう。
一文字は、本郷との別れの際に「群れるのは好きじゃない」「あんたは嫌いじゃないが、あんたの後ろにいる奴らは好きじゃない」と言っていた。
政府たちの仲間になる=人類を救うことに繋がるにもかかわらずそれを拒んだのは、彼自身の正しさを優先したことに他ならない。つまり、一文字についても本郷同様にエゴに近い信念を持ち合わせており、正義よりもそれを優先していたのだ。


2+1号となり、まさに "仮面ライダー" という名のヒーローになる

チョウオーグ戦が終わり、本郷のプラーナが宿ったマスクを政府に託された一文字は、新しいスーツとバイクを手に入れ、2+1号となる。本郷のプラーナと共に戦地に赴く彼は、正真正銘新しい戦士となっていた。

ラストに2号でも1号でもない「2+1号」という姿になったことは、まさしく変身を意味するのだろうと、僕は思う。すなわち、一人物から見たヒーローから、人々を救うヒーロー「仮面ライダー」となったのだ。

その理由に、彼らの行動原理はチョウオーグを倒した時点で消滅している。
というのも、本郷の「ルリ子を助ける」という行動原理で言えば、ルリ子は死に、ルリ子の一番の望みであったチョウオーグを止めるという願いもはたしているため、目的は果たしてしまった。
また一文字についても「本郷を助ける」ということは、チョウオーグとの戦いでプラーナのみとなってしまった今、達成し得ない。プラーナの繋がった今となっては、本郷も一文字の一部になってしまった。
だから、2人の戦う行動原理はすでになくなっており、戦う上での目的は「人々を救う」というそれ1点に絞られているのだ。

さらに言えば、本郷と一文字が1つになったことで、お互いの足りない部分を補い合った「完全な仮面ライダー」となったとも僕は思う。
本郷は、優しさと信念を持ち合わせながら、人々を救うという「正義」の側面が弱い。一方で一文字に関しては、自身の信念と正義への執念はありながらも、政府と共に本郷と戦おうという助け合いの優しさはなく、また2+1号のマスクを持った際にも「温かい」と言っているように、本郷の宿ったマスクに温もりを感じており、それは本郷の優しさを得たことにも近いと思う。

だから、2+1号としてこれからオーグと戦っていく彼らは、「信念」「正義」「優しさ」を併せ持った、本物のヒーロー "仮面ライダー" となったのだと僕は思った。

最後に

シン・仮面ライダーで受けた衝撃と、考察した仮面ライダーという存在については、以上である。

この作品を通して、仮面ライダーという存在について、ひいてはヒーロー・正義について深く考えさせられたのは、非常に大きな経験となった。

シン・仮面ライダーという作品の素晴らしさと、仮面ライダーとい作品の偉大さを胸に、これからも一ファンとして仮面ライダーを楽しんでいきたいと思う。


※参考文献として・・・

今回記事を書き上げる、ひいてはシン・仮面ライダーという作品に向き合う上で欠かせなかったのが、「無限まやかし」というラジオである。
本考察とはまた違った深い考察が多く語られているので、是非聞いていただきたい。


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