『たまごの祈り』㊿ 完結

 青い植木鉢には、とくに動かした覚えもないのに、細かいヒビが入っていた。植木鉢の中身は空っぽのままで、洗って干したブルーのシーツがゆらゆらと風に沿うように揺れていた。よく晴れた、風の強い日だった。揺れたシーツが一瞬舞い上がって、きれいな飛行機雲がひとつ引かれただけの真っ青な空が見えた。
 ベランダを出てキッチンに向かうと、柳がバイトから帰ってきていた。ノンアルコールの梅酒を冷蔵庫から取り出して、柳は、今日は昼間から呑むんだ、と言って笑った。
「そんなので酔えるの」
「酔えないけど、気分だけでいいんだ。本物のお酒だったら頭が痛くなっちゃうし、午後を楽しむためにはこれがちょうどいい」
「ふうん。何かあったの」
 私は、柳がその細い指でプルタブを引っ張るのを見ていた。三五〇ミリの缶はぷしゅうと音を立てた。
「うーん、そうだなあ、今日、すごくバイト先で褒められたんだ」
「へえ、良かったじゃん」
「うん。店長がすげえおれのこと気に入ってくれてて。よかったら社員にならないかって言われて」
「それはすごい。どうすんの」
「正直言うと、悩んでるんだ」
 柳が缶に口をつけ、二、三度、喉が動いた。幸せそうに眉をひそめ、おじさんみたいに、染みるなあと言って、柳は続けた。
「本屋は好きだけど、おれ、このまま本屋に居続けたとして、どうなるんだろうって」
 柳は大きなため息をついたあと、残りをぜんぶ飲み干した。からっぽになった缶を揺らして、テーブルに置いた。
「おれ、このまま生きていけるのかわからない」
 柳の瞳が突然ぶわっと濡れて、すべすべの頬をつたって涙がそっと流れ落ちた。
「本屋がどうとかじゃなくって、おれもう、この世の中で生きていけないかもしれないって、考え出すと眠れない時もあるんだ。本屋ではお客さんに雑誌や漫画や文庫本を手渡してるけど、そこに来るどんな人間より俺がいちばん異常なんじゃないかって思って、人々の目にはおれどんな風に映ってるんだろう、ちゃんと正常な、人間として映ってるのかって。でも正常かどうかなんてほんとは考えても無駄だって、どう見られてるか考えるのもただの自意識過剰だって、わかってるんだ、でもずっと頭の片隅に、おれは変なんだって考えが、呪いみたいにあり続けるんだ」
 涙はあとからあとから溢れては流れ落ちていった。本当に酔ってしまったかのように、柳は泣いた。
「おれ普通の顔して外歩いていいのかなって、これからもっとたくさんの人間に会って、そのなかでおれ、生きていけるのかって、もう、わからないんだ。インターネットの動画で情報がなんでも目に入るようになって、あるとき車とセックスする男性の動画をみて、ああ、同じだって思った。彼は楽しいんだろうか。喜びをもって生きていけるんだろうか。もしかしたら彼はおれと違って人間とも性交渉ができるかも知れない。おれなんかよりずっと前向きかも知れない。でもおれはきっとこのままじゃ親に孫の顔なんて見せられないし、親孝行もできない情けない恥ずべき人間だ。もうおれは人間じゃないんじゃないか。おれなんて生きてていいんだろうか」
 とめどない涙は泉のように湧き出でて絶え間なく柳の頬を濡らした。私は彼のことをもっと幸福だと思っていた。もっと強いんだと思っていた。だから優しいんだと思っていた。だがそれは思い込みだった。彼は死ぬほど涙の出るようながんじがらめの苦しみのなかで、深い藍色の絶望を抱えて生きていたと、そのとき私は初めて知った気がした。私はあまりにも無力で、ただそこにいることしかできなかった。
「おれ、透子さんとホテル入ったときもすげえ怖かった。女性に誘われたって何もできないんだ。どうせおれのこと好きなんかじゃないってことは薄々感じてたし、おれは不能だし、期待されていることに応えられないのはわかりきったことだったし、だけどここまできておれは何もできないのか、普通じゃないからこんなに苦しいのかと思うと、だんだんなんか腹が立ってきて、本当にしんどかった」
 柳はパーカーの袖で顔を覆いながらなおも話し続けた。涙を拭ったグレーの袖が重く濡れているのが見えた。
「シャワー浴びてる時、むしゃくしゃしておれ、風呂場で小便したんだ。小便をしながら思った、これが黄色く濁っているのは、じつはおれの小便だけなんじゃないかって。みんなのは鮮やかなピンク色や透き通った青色かもしれないと、なんか急に思って、勝手に孤独になって、勝手に泣いた。小便と流れてく水の中で泣いたんだ。情けねえよな。こんなことで苦しんでるなんて誰にも悟られたくなくて孤独で苦しかった。それに反して、彼女に、小便の色を気にして不安になってるような人間なんだ、おれは、と言ってしまいたくもなった。おれは、君と来たホテルのシャワールームでお漏らしをしながら、小便の色を気にしてる歪んだ小さい男だし、女性に対しておれは全く不能なんだと話してしまったら、彼女はどんな顔をするだろう。彼女はもしおれが正常で、おれに抱かれたとして、おれを便宜上だけでも愛しているふりをするんだろうか?彼女はおれをセックスの間、嘘でも愛せるのか?いや、男に愛される自分を愛しているのか?優秀な選ばれた女として、女を選んだ男のうちの一人としてのおれを嘘でも愛せる?セックスをすれば彼女は少しでもおれを好きになるのか?抱けなかったら離れていくのか?セックスができないと嘘でも人間を愛し愛されることはできないのか?おれは一生だれも本当の意味で愛すことはできないのか?だとしたらこれはとてもこわいことだ。おれは普通にセックスができると思っている彼女が羨ましくて憎らしくてイライラして、ひとつ間違えれば彼女の首を絞めてしまうかもしれなかった。おれの小便の色が他の奴らと全く違ったとして、生まれつき違ったとして、彼女は受け容れるのかな、おれのそれを。ばかばかしい。ばかばかしい。あれ、さっきからなに言ってんだろ、おれ」
 こんな柳を見るのは辛かった。柳にはちゃんと幸せであって欲しかった。こんなに一生懸命悩んでて、こんなにも優しいのに、なぜ彼がこんなに苦しまなきゃいけないんだろう。ぼろぼろになって、すり切れて、別の人間を見つめてやりきれなくなって、その瞳を涙で濡らして、絶望を吐き出して、普通じゃないことを呪い続けても、いつか心の底からちゃんと幸せになれると、信じて欲しかった。私が、どんなに柳の幸せを願っても、なにも、届かないんだろうか。気がついたら私も泣いていた。何でだろう。私たちは、幸せになれないのだろうか。こんなにも私は、柳という人間が、好きだというのに、幸せにはなれないのだろうか。
「ごめん、変な話きかせちゃって、伊田には関係ないのに」
 柳は袖で顔を覆ったまま、震える声で言った。
「関係なくなんかないよ」
 私はぶわりと悲しくなって、気がつくと、柳よりも声をあげて子供みたいに泣いていた。こんな風に泣いたのはほんとうに久しぶりで、私はたちまち迷子になった頼りない少女のように、声をあげてぼろぼろに大粒の涙を流した。
「関係なくなんか、ない、ぜったいに」
「どうして、伊田が泣くの」
「関係ないわけないじゃん、一緒に、住んでるのに」
「ごめん、伊田、ごめんね、そうだよね」
「一緒にいてくれるんだって、うれしかったのに」
「うん、うん、ごめんね」
「好きなの」
「うん、えっと」
「柳が好きなの、気づいたときから」
「えっと、ありがとう」
「柳という人が、好きなの、こんなの、私の勝手で言ってることだから、わかんなくてもいいけど、関係あるの、柳は、私に、関係あるの」
「うん、ありがとう、伊田、ありがとうね」
「人間として好きなことの、それの何がだめなの」
「うん、だめなんかじゃないよ」
「セックスできないことのなにがいけないの、柳はこんなに素敵なひとなのに」
「うん、ありがとう」
「くやしい、柳がそんな風に思って生きていかなきゃいけないなんて」
「ありがとう、伊田」
「私だって、男の人はこわいけど、柳はぜんぜんこわくないし、優しいし、誰よりも幸せになってほしいのに、私は、全然関係なくなっちゃったら、何もなくなっちゃったら、どうすればいいの、どうすれば柳が幸せになるんだろう」
「伊田、おれも、伊田には、幸せになってほしいんだ」
「うれしい、けど、なんで、関係ないなんて、悲しいこと言うの、私は、柳のことが好きなの」
「ごめんね、伊田、ありがとう」
 柳はそっと私の手を取って、どうしたらいいかわからないといった様子で、それでもゆっくり私の手を持ち上げて、泣かないで、と言って、私の手を私の頬に当てて、私のなみだを拭った。
「私だって、こわくて、セックスなんてできないけど、それってでも、柳が抱えてきたものとは、全然違うかもしれないけど、でも、柳とただ一緒にいて、幸せだとおもったのに、もう私は幸せなのに、柳をひとりで不幸になんて、させたく、ない」
 私はもうとにかくぐちゃぐちゃになることしかできなくなっていた。そのまま私はわんわん泣き続けて、鼻水も涙もぜんぶ柳の袖に押しつけて、目も腫れて鼻はきっと真っ赤で、ひどい顔だろうなと思った。袖のグレーはふたりの涙で深く重たく染みていた。
「ごめん、変なこと言って、でも、こわい、私ばっかり柳に甘えてるのが、ずるい、私、何もできなくて」
「いいんだ、伊田は、ほんとうに優しい、ありがとう」
 柳はこの世でいちばん優しいものみたいに微笑んだ。泣きすぎて頭の痛い、頭の悪い私は、そんな柳を見てくらくらした。なぜこの人が不幸な思いをしなくてはならないのか、まるでわからなかった。
「ねえ」
「うん?」
 柳は、ふいにそのふわふわの頭を垂れ私の肩に寄りかかって言った。
「おれだっていつも伊田に甘えてるつもりなんだけど、今からすごいわがまま言ってもいいかな」
「うん」
「今日、一緒に、眠ってくれないかな、隣で」
「えっと、いいけど、なんで」
「なんか、今まで、女の子と同じ場所で寝るって考えると、どうしてもさ、その先の期待に応えられない自分に吐き気がしてだめだったんだけど、伊田なら隣にいても大丈夫な気がする。どうかな、すごく自分勝手なのはわかってるんだけど」
 柳の声が今までで一番近くから聞こえて、そのくぐもった声は私の肩を通じて暖かく入り込んできた。
「おれ、大丈夫になりたいんだ」
 柳が静かに泣いているのがわかった。
「わがままだってなんだっていいから、柳が幸せになるなら、私はいいよ」
「うん、ありがとう、俺、大丈夫になりたい」
「柳はもう大丈夫だよ、私、柳と一緒にいるよ、大丈夫ってこと忘れないように」
 柳は、柳の優しい手を、そのまま私の背中にまわして、そっと抱きしめるかたちを取った。
「伊田、おれ、いいのかな。おれは誰のこともおれの人生に巻き込みたくなんてなかったんだ。普通のカップルみたいにできないおれは、誰のことも幸せに愛せないと思ってた。でもおれ伊田を失いたくない、こんな風に言ってくれる伊田が離れていってしまったら、おれ、もっと不幸になってしまう気がするんだ」
 柳の声が耳もとで震えた。
「暴力なんじゃないかな、エゴでしかないじゃないか、わがままじゃないか、おれ、伊田のこと触ってしまった、甘えてしまった、でも、こうしないとおれ、どんどん大丈夫じゃなくなっていく気がして」
「暴力なんかじゃないよ、暴力なんかじゃない」
「そうかな、おれ、伊田のこと、幸せにできるのかな、自分は勝手に追い込まれて、こんなにも不幸なのに、伊田のこと、幸せにできるかな、甘えてばっかりで」
「わがまま言って甘えてるのは私のほうだよ、もう幸せだよ、なんでわかんないの、大丈夫なんだよ、柳は、大丈夫なの」
「うん、ありがとう、うん」
 あたりまえだけれど、柳は暖かくて、心臓が動いていて、生きている人間だった。柳に体温があるということは、私をひどく安心させた。
「綺麗だな、と、思ったんだ」
 柳はぎゅっとまわした腕に力を込めて、私のと柳のおなかがしっかりとくっついて、大きな猫を抱えてるみたいに暖かかった。私は呼吸とともに柳の首筋のにおいを吸い込んだ。やっぱり柳は人間だった。
「伊田は、すごく優しくて、心が綺麗だなって、思って、幸せになってほしいと、ずっと思っていた。普通じゃない部分を抱えているおれの人生に、いちばん巻き込みたくなかった、でも幸せだって言ってくれて、嬉しかった、すごく」
「うん、ありがとう、幸せだよ、まいにち楽しいよ」
「ありがと、おれ、伊田のこと、好きだ」
「うん、ありがとう、嬉しい」
「付き合うとか付き合わないとかじゃなくていいんだ」
「うん」
「ただ、一緒にいてくれ、息苦しかったら離れたっていい、気に入らないことがあったら言ってくれていい、だだ、大丈夫なときは、できるだけ、近くにいてほしい」
「うん、そうだね、一緒にいようね、私、まだまだ、柳と色んな話がしたい」
「うん、ありがとう、おれも、伊田と色んな話がしたいし、もっとちゃんと知りたいんだ、伊田のこと。ほんとうにありがとう」
 柳は長く息を吐いて、気の抜けたように力を緩めて両腕をほどき、少し恥ずかしそうに笑った。気がついたら私も笑っていた。

「柳」
 私の隣に柳が寝そべっているのは、何だか不思議な気がした。今まで、私たちはいちども同じ空間で眠ったことはなかった。
「なに?」
「私、柳と、金木犀を見に行きたい」
「いいね、もうすぐ金木犀の季節だ」
「それで、いっぱい写真を撮って、見せてほしい」
「うん、そうだね、たくさん撮ろう」
 私はこのままどこへでも行ける気がした。このひとが隣にいれば、なにも怖くないと思った。
「柳」
「うん」
「ありがとう、おやすみなさい」
「うん、ありがとう、おやすみ」
 そのまま柳と私は、手をつないで眠った。
 夢を見た。
 制服姿の私が、かつて恋人だった彼女と手をつないで、幸せそうに眠っていた。それは当時の私が彼女になにも伝えられなくて叶わなかった、幸せで平和な夢だった。
 夜中に目が覚めて、私はあまりに幸福そうな彼女たちの幸せを祈って泣いていた。
 開いていた窓から風が入り込んで、黄色くて丸く優しい月が見えた。

 秋は、いつのまにかまた、私たちを包み込んでいた。

【『たまごの祈り』完 】

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