『たまごの祈り』㉜

 空になったパスタ皿が店員さんの手によって運ばれていったあと、お皿の残像を見つめるように視線を落とした柳がつぶやいた。
「羨ましかったんだよね、おれ、直也と由香里ちゃんのこと」
「へえ、なんで羨ましかったの?」
「うーん、なんていうか、いい意味で普通のカップルで、幸せそうだったっていうか、色んなところに出かけたり、一緒に写真撮ったりしてさ。うまく言えないけど」
 大学の並木道のベンチで、おれ、きっと、普通の恋愛ってできないんだ、と言ったときの柳の声が、脳内に響いた。もしかしたら、柳は過去に辛い思いをしているのかもしれないなと思って、俯く柳のきれいな睫毛を盗み見た。辛い色恋は、ガラス細工が地面にたたきつけられるような痛々しい絶望を呼ぶときがあると、昔読んだ何かの本が言っていた。まともな恋愛をしたことのない私には、そういう気持ちに苦しむ相手と、どう接していいかまるでわからなかった。私はゆっくりと言葉を選んで、無難な言葉をかけることにした。
「柳、モテそうだし、きっと素敵な恋愛できるよ」
「そうかなあ。なんか、わかんないな、そういうの。おれ、たぶん、恋愛とかできなくてもいい気もしてるんだ。直也たちは、自分にはないものを持ってるからなんとなく羨ましかったというか、そんな感じで、大げさに言うと彼らの関係性を尊敬してたんだと思う。おれには絶対にできないことだから」
「それは、恋人とデートしたりとか、一緒に写真を撮ったりとか、そういうことができないってこと?」
「うーん、人と出かけたり、写真に映ることに抵抗があるわけじゃないんだ」
 現にこうして伊田と出かけてるわけだし、と言って、柳は溶け出したアイスの混じったミルクティーを飲んだ。確かに、周りの人々から見て私たちは、デートをしているカップルとして見られ、世界の一部として違和感なく風景に溶け込んでいるのかもしれなかった。緑色のストローを指先で触りながら、柳は続けた。
「おれにとって、恋人と、っていうのが難しいんだ。おれ、恋人って何なのか、よくわかってないんだと思う。その点、直也たちは客観的に見て典型的な恋人らしかったというか、当たり前のように恋人同士だったんだ。だから、なんか、別れちゃったって聞いて、勝手にもどかしかったんだ、二人はあんなに恋人だったのにって」
 どこか悲しそうに笑う柳を見て、すこしだけ、私と柳は似ているのかもしれないと思った。私は、私たちがつめたい海の底の深海魚になって、広い海のなかで一度も出会えなくて、人知れずひたすらに孤独に揺蕩ってきたように思って、悲しくなった。店内を包むあたたかさの象徴みたいなオレンジの光は、寒い海にいる私を余分に苦しめた。つめたい海で初めて知ったあたたかい潮の流れは、深海魚のその体に合わなくて死んでしまうかもしれないと思って、私は想像上の架空の魚のことを思って、そっと瞼を閉じた。

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