『たまごの祈り』㉚

 ライブを観終わって地下から出ると、外気がすぐに私たちの元いた世界の匂いで肺に流れ込んだ。その日目の当たりにした熱量は細かな粒子となって、私の髪や服や肺の中にいつまでもあり続ける気がした。記憶にこだまする笑い声には暖かな、心地よい満足感があった。私はすっかりこの小さなライブハウスを気に入っていた。
 ライブハウスから直也くんが出てくるのを見つけた柳が、おーい、と小さく声を出し、控えめに手を振った。
「おー、柳夫妻じゃん!」
 ほんとにデートしにきたんだ、ありがとーねー、と調子よく言いながら、直也くんがこちらに近づいてきた。
「せっかく来てくれたし三人でゆっくりご飯でも食べたいんだけど、俺打ち上げあるから今日はごめんな、また観に来てよ」
「おう、また来るよ、お疲れ様な」
「とっても面白かったです、誘ってくれてありがとう」
「こちらこそ伊田ちゃんがデート楽しんでくれてよかったわ、ありがとねー」
「あのなぁ、別にデートじゃねえって」
「やだやなぎん何その言い方!やだぁ可愛くない子!」
「別に可愛くなくていいし。ていうか、今日は由香里ちゃん来てないの」
「あー、なんか今外国にいるらしい、ていうかもう来ないんじゃねぇかな」
「え、なに?旅行かなんか?来ないってどういうことだよ」
「留学だってさ。言ってなかったっけ?先月別れたんだよ、俺ら」
「聞いてねえ。どういうことだよ」
 直也くんはうつむいたまま、聞こえるか聞こえないかわからないくらいの低い声で、あんま細かいこと言ってもわかんないと思うけどね、と言いながら、何かをごまかすようにふっと笑った。そのあとほんの一瞬で魔法のように、顔を上げておどけた表情を作った。
「まあね!俺にもいろいろあんの!俺そろそろ打ち上げ行かなきゃだから、すまんけどまたな!」
「おい、ちょっと」
「お前は伊田ちゃんとのデート楽しめよ!伊田ちゃんまたねー」
 そう言って足早にその場を離れた直也くんは、ライブを観に来ていた出待ちの女の子たちに愛想を振りまきながら芸人さんたちがわらわらといるところにあっという間に溶け込んでいってしまった。しばらく心配そうに直也くんの背中を見つめていた柳は、ため息をついて、そろそろ行こうか、ちょっと遅くなったからご飯は外で食べよう、と言って、煮え切らない表情で寂しそうに笑った。

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