『たまごの祈り』㊷

 洗濯物を干しているとき、ベランダで空っぽなままの鉢植えに気づいて、ああ、なんだか、私みたいだ、と考えながら、しばらくぼうっと外の景色を見た。午前中の光は家々をよく照らしていた。その日は影すらも眩しくて、私は細めた目の端で道路を横断する黒猫を認めると、あのこは圧倒的な光の中に溶けちゃうんじゃないか、などと考えた。
 今日は用事の帰りにホームセンターまで足をのばして、シソの苗を買っていこうと思った。真っ青なプランターの空白を一刻もはやく埋めなくてはならないと思ったのだ。いつだって空白は私の生活のそばにあった。私は迫りくるそれを目に見える実りでごまかさなくてはならなかった。私が安心して生きるために。私のために。

 ファミリーレストランは思いのほか空いていた。柳とふたりで出かけるのは久しぶりな気がして、通販で昨日届いた真新しいスニーカーの違和感にもたつく足もとを煩わしく思いながら、なんだかそわそわとして落ち着かなかった。慣れない靴の異様な軽さが私を不安にさせた。
「伊田さんって、もっとエキゾチックな見た目の人かと思ってた」
 思ったよりはんなりって雰囲気だねえ、なんか安心感があるよ。目の前に座る初対面の男の人に急にそんなことを言われても、どうか返していいか困ってしまう。どちらかというと由香里さんとこの今村京介という人のほうが、留学帰りの異国的なにおいがした。私は所在なげな、はぁ、という声を、テーブルの上に返事として浮かべるように置いた。
「今村くんは由香里ちゃんとどこで知り合ったの?」
 柳はこういうとき物怖じせずに話ができるようで、羨ましかった。私は知らない人と話すときはひどく緊張してしまうのだ。スニーカーの固結びにした紐みたいにぎゅっとしたまま、私は不自然にしゃんとして座っていた。
「そうそう!俺、ユカちゃんと帰りの飛行機で隣だったんだ」
「ね!急にすごい勢いで話しかけてくるから、ちょっとびっくりしちゃった」
 由香里さんがよく似合うショートヘアを耳にかける仕草をしながら、とても楽しそうに笑った。
「いやー、日本人だったから親近感わいて俺から話しかけたんだけど、すげー気が合ってさ」
 運命だと思ったんだよね、なんて今村くんは気軽に言ってのけた。彼は私たちより一つ年下で、由香里さんの留学先と同じアメリカに、ワーキングホリデーに行っていたのだということだった。活発そうな感じで、その雰囲気に陽に焼けた小麦色の肌がよく似合っていた。
「柳さんと伊田さんは大学生なんでしょ?俺、高校出てすぐふらふらバイトしてたまに海外行ったりしながら生活してたから、大学生ってなんか新鮮だわ」
「うん。おれと伊田は同じ文学部なんだ。すごいね、おれ海外行ったことなくて、由香里ちゃんと違って英語とか得意じゃないし」
「けっこうジェスチャーでも何とかなるもんだよ海外って!俺的には旅行なら台湾とかおすすめかな。メシうまいしアジア圏だから安心感あるんだ。柳さんと伊田さんは一緒に旅行とかしないの?」
「あ、それ私も気になる!柳くん、伊田さんと付き合ってどのくらいなの?」
「えーと、二人で旅行は行ったことないし、おれと伊田は付き合ってるわけじゃないんだよね。ね、伊田」
「うん。別に付き合っている訳では・・・」
「えー、俺的にはお似合いだと思うけどな!」
「ほんとに?一緒に住んでるんならやっぱ付き合ってるんじゃないの?やっと柳くんにいい人見つかったのかと思って、安心してたんだよ私」
「いや、おれらはいろいろあってルームシェアしてるだけなんだ。えっと、その、今村くんには恋人とかいないの?なんとなく、モテそうだと思うんだけど」
「俺はユカちゃんにずっと振られてるんだよな、早く俺の良さに気づけばいいのに」
「もう、そういうの冗談でしょ?やめてよね軽いんだから」
「いや、ユカちゃん可愛いんだからみんなユカちゃんのこと好きになるよ。俺と付き合ってくれればいいんだけどさ、そうもいかないみたいで」
「いや私、今村タイプじゃないから、生意気だし」
 柳がちょっとだけ、肩の力を抜いたのがわかった。付き合っている訳ではないと知って安心したのだろう。きっと直也くんのことが心配なのだ。
「えっと、由香里さんは、柳と高校が同じなんですよね?」
 あまりにも喋らないのは逆に居心地が悪いので、目の前に座る由香里さんになんとなく訊ねた。
「そうなの!柳くんは高校の時、私と直也ってのとよく一緒にいたんだよね、三人で」
「ああ、伊田は直也と会ったことあるんだよね、こないだ一緒に直也が出てるライブ観に行ったんだ」
「そうなんだ、直也、元気そうだった?」
「うん、元気そうだよ。相変わらず連絡取れないの?」
「あいつ電話は出るんだけどなんか話してて気まずい感じなんだよね、ほんと変な意地張っちゃってさ、あいつ」
「直也って奴、ユカちゃんの元彼でしょ?俺、会ってみたいたいんだよね」
 ユカちゃんがどんな男と付き合ってたのか興味あるんだ、と、すっきりと言い切る今村という人は、不思議と嫌味のない印象を与えた。純真な好奇心のエネルギーを肌にぶつけられてるような感じ。直也くんの立場からすれば、いやなのかもしれないけれど。
「じゃあさ、今度さ、今村も直也が出るライブ観に行ってみない?柳くんも伊田さんも一緒にさ」
 久しぶりに直也に直接会いたいし、などと歌うようにいう由香里さんは、別れた恋人の話をする気まずさなど微塵も感じさせない様子で突飛な提案をした。
「直也、急に今村くん連れて行って大丈夫なのかな、あいつ案外人見知りだし」
「事前に連絡するし大丈夫でしょ。それに柳くんたちも来てくれたら友達いっぱいで楽しいんじゃない?」
「そっか。大丈夫だといいんだけど・・・」
「じゃあ決まりね、私直也に次のライブの予定訊いておくから」
 由香里さんはドリンクバーのジンジャエールをすごい勢いで飲み干してしまった。私はカップの中にすっかりとそのままにしていた重たいティーバッグを取り出し、ホットのアールグレイに口をつけて、苦いな、と思った。罪のない紅茶を私のせいで苦くしてしまったな、などと考えながら、これはこれで悪くはないのだけれど、と思いなおして、肩の力を抜いて四角く固いソファにもたれかかった。

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