『たまごの祈り』⑫

「彼女には、写真のモデルを頼もうと思っていたんだ。人をメインの被写体にする機会ってあんまりなかったから気合い入っちゃって、自然な姿が撮りたいから、いっそのこと一緒に住みませんかってことになったんだけどね。なんか、いろいろと話が合わなくなっちゃって」
 私は、心のなかで、モデル、と呟いた。いや、実際に声に出してしまっていたかもしれなかった。私はあの日河原に立っていた彼女のその線の細さや、女のひとのそれらしいカーブをたたえた美しい雰囲気をぼんやりと思い出した。柳は私に構うことなく続けた。
「もともとおかしかったのは、同居を提案したおれのほうなんだ。確かに、お付き合いもしてない女の子と一緒に住むなんて、誠実ではないことだと思われても仕方ないと思うよ。でも、なんていうか、彼女はプロのモデルになるために頑張っている最中だったし、おれはちゃんと向き合って彼女を撮りたかったし、なんだか、真剣にやりたいことをやっている同志みたいな、勝手にそんな風に思っていただけなんだ。一方的にだけどね」
 こんなに饒舌な柳をみるのは初めてだったので、なんとなくコーヒーをこくりと飲みながら横目で柳を見た。冷たそうにつやつやとした頬は石みたいに冬の朝の光を反射していた。
「おれは、たぶん相手の気持ちをよくわかってなかったんだ。だからきっと、考え方のズレてたおれが悪いだけで、それに、もう終わったことだから。なんというか、大丈夫なんだ。もうきっと」
 柳は言い聞かせるように吐き出して、そのまま続けた。
「そのこととかを考えてたらさ、なんか、恋人でもない伊田と一緒に住むのも、きっと常識的ではないことで、すげえ迷惑なんじゃないかと思って。だからさ、嫌だと思ってるなら、言ってくれていいから。人間は、我慢し続けて爆発してしまうような不条理は、すすんで抱えるべきではないんだ。無理はすることじゃない」
 あたまがくらりと揺れた。柳がそんな風に激しく真剣に物を考えているなんて思いもしなかったし、彼は何かの美しい化け物にとりつかれて語っているように見えた。私は彼のことをただ闇雲におだやかで優しいのではないかと、どこか勘違いをしていたようだった。彼はきっと頑なに、鉄のように優しすぎたのだ。
 私はその話をきいても、依然として柳というひとが人間としてとても好きだったし、心配は見当違いなものだったのだが、私はなんとなくどうしようもなく、曖昧に笑うことしかできなかった。柳はまっすぐと遠くを見つめたまま、小さいけれど周りの空気を弾くような凜とした声で続けた。
「それにおれ、きっと、普通の恋愛ってできないんだ」
 柳はそれを言ったきり、黙って前を見つめ続けて固まってしまった。彼は考え事をしているようにも、落ちていく枯れ葉をただ見つめているようにも見えた。きっととても大事なことを打ち明けられたのだろうと思ったが、やっぱり私は適切な仕草や言葉なんかを見つけることができずに、柳の横顔を見ていた。
 結局私は、一緒に住むことは迷惑なんかじゃない、という返事のつもりで、引っ越しの日はおひるの十四時に着くようにレンタカーで荷物を運ぼうと思う、と言って、コーヒーありがとう、と言い残しその場を去った。
 もらった缶コーヒーは、苦く喉の奥に響いた。

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