『たまごの祈り』㊵

 その日から私はますますたまごを作るようになった。生まれたたまごたちは艶やかにまるく、無造作に増え続け、私の部屋の一部を確実に浸食した。積み重なったそれらは混じりけのない純粋さで私を眺めているように、ただそこにあった。私は群となったたまごたちとときどき見つめ合って、不意に涙さえ浮かべさえした。私は授業すら休んでたまごを作っていないと、おちつかない身体になっていった。
 もうすっかりだめになってしまっていた。ただおそろしく黒い穴に落ちていくようだった。
 私は、なるべく柳と顔を合わせないようにしていた。
 ご飯をつくる体力があるときは、柳のぶんも作って、自分のだけ先に食べて、柳のぶんはラップをして置いておいた。幸い、柳は大学やアルバイト先の書店に出かけることが多く、私が先に夕飯を済ませていても、違和感を持つことはなさそうだった。
 しかしさすがに私が数日も引きこもると、具合でも悪いのかなと柳なりに心配になったようで、琥珀色をしたはっさくのゼリーとか、ちょっといいチョコレートとか、そんなようなものを部屋の前に置いていってくれるようになった。
 優しくしないで欲しいと思った。
 全部ものすごく美味しかった。それが余計に私を傷つけた。
 丸五日くらい、生活の最低限のことだけを片付けて、たまごを作り続けたあと、私は何か新しいことを始めなければ死んでしまう、と思った。
 唐突に出かけて、昼間の街の明るさに驚いて、私はほとんど倒れそうになりながら駅の方に歩いた。駅前の薬局で安いジャスミン茶を買って、ペットボトルの三分の二ほどを一気に飲み干したら、すこしだけ落ち着いた。私は気がつかないうちにずいぶんとのどか渇いていたのだ。
 駅前の大通りは風が気持ちよくて、このまま隣駅まで行って映画でも観ようかな、最近全然服買ってないな、と、わざと小さな声で呟きながら歩いた。歩いていたらなんだかとてもお腹がすいた気がしたので、これまで一度も行ったことのなかった、チェーン店のすこし高価なハンバーガー屋さんに、なんとなくふらりと立ち寄った。私は久々にファストフードのにおいを嗅いだ。
 私はチーズのたっぷりと入ったハンバーガーに齧りつき、ポテトを口に放り込み、飲み込んで喉につかえた分をコーラで流し込んだ。ああ、私、生きてるな、と思った。私はこれまでふさぎ込んでいたのが嘘のように、かんたんに生きていることを感じることができた。今まで何にもやもやしていたのかまるでわからなかった。ナーバスは無自覚に襲い来るのだ、波のように緩やかに雲のような陰りで、確実に私の首を絞めに来る。たまにそういう日があった。きっとそれだけのことなのだ。
 でも今となっては、コーラを掴んだ掌は、その冷たさを冷静に感じることができる。初めての店で食べたハンバーガーが、驚くほど美味しいことがわかる。
 大丈夫だ。
 なんだか私は満足した気になってその店を出て、でもなんとなくまっすぐ家には帰りたくなかったので、大きな本屋さんで時間を潰した。柳が働いているのとはまた別の書店だ。「バリ島」とか「仮想通貨」とか「ハンドメイドのニットセーター」とか、自分には全く関係のなさそうな言葉の羅列を見て、私は心を落ち着かせることができた。私は、雑然とした言葉たちが整然と棚に並べられているさまが、とても好きだった。
 そのまま私は何も買わずに書店を出て、映画でも観ようなどと考えていたことをさっぱりと忘れ、吸い込まれるようにスーパーに入った。食材とか要らないはずのスナック菓子とか、何でもないものたちを買い、ゆっくりと歩いて家に帰った。久しぶりに、すこし遠回りをして、川の向こう岸の方まで歩いて、ぬるい風に当たった。途中にあった自販機で、オレンジの缶ジュースを買って、ゆっくりと飲み込んだら、冷たさが喉を伝って、胃の中に溶けていった。川の水面はきらきらと眩しかった。遠くで何かの魚がはねた気がした。陽はわからないようなゆっくりとした早さで、でも確実に沈んでいった。

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