『たまごの祈り』⑱

 暫くして、じゃあ俺そろそろ帰るわ、新婚の邪魔しちゃ悪いしな、と言いながら直也くんが立ち上がった。新婚じゃねーし、と柳が言うと、直也くんは、いやいやお前らもう老夫婦みたいな雰囲気出てんぞ、と言いながらまた、ふはは、と笑った。
 直也くんが帰ってから、柳に、すごくいい人そうだったね、と言ったら、柳は、だろ?いい奴だし、すげー尊敬してるんだ、と言いながら、自分が褒められたようにくすぐったく笑って見せた。私には、その笑顔がつよくまぶしく映って、目を閉じれば川に映った夕暮れの太陽を、くっきりと思い出すことができた。

 私は布団の中からなんとなく動けずにいた。目が覚めると見慣れない天井があり、ほんとうに引っ越してきたのだなと思った。どこか自分に都合のいい夢を見ているのだと思っていたから、あたらしい部屋の匂いが消えない空気に肺が慣れなくて、私はもう一度使い慣れた布団に潜り込んだ。この家もまた、気づかないうちに私の生活になってしまうんだろうなと、ぼんやりとしたあたまで思った。

 やっと布団から抜け出して、食パンを焼きながらスクランブルエッグを作っていると、柳が起きてきて、おいしそうな匂いだ、と寝ぼけ眼で呟いた。柳も食べる?と訊くと、やった、といって食卓として置いたテーブルの前に座るので、大型犬に餌をあげるような気持ちになりながらスクランブルエッグをお皿に盛って置いた。柳は食パンを二枚食べたいというので追加で焼きながら、今度は食材をもっとまとめて買ってこなきゃなと思った。
 柳はブルーベリージャムを塗って食パンを美味しそうに食べている。彼はほんとうに甘いものが好きなんだなと思う。そんな甘いものばっかり食べたら虫歯になるよ、と言ったら、ちゃんと歯医者さんに通ってるよ、と返されたので、通ってるならいいかと思って甘い紅茶を淹れてあげた。もし柳となにか悲しい喧嘩をしたら、チョコレートでも買って帰ろうと思った。
「これ美味しいな、伊田はよく料理するの?」
 美味しそうにスクランブルエッグを口に運ぶ柳は、控えめに言って幸せそうだった。こんな簡単なものならいつでも作るのにと思いながら私は言った。
「料理ってほどでもないけど、しなくはないかな」
「へぇ、すごいな、おれ適当に菓子パンとかで済ましちゃうから」
「たまにはちゃんとしたもの食べた方がいいよ、私もたいしたものは作れないけどさ」
 やった、じゃあ伊田に作ってもらおう、一緒に住んでよかった、などと簡単に言うので、急にそんなことを言う柳はずるいし、私はたいした人間ではないのになあとぼんやり思いながら、チーズをのせて焼いたパンを囓った。そういえば、初めて会ったときも私は喫茶店でパンを食べていたなと思った。あのときのたまごトーストを思い出して、たまごを茹でておけばよかったなと考えながら、少しぬるくなった紅茶を飲んだ。

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