『たまごの祈り』⑳

 動物園で見たしろくまのように大きな人影が階段の陰からこちらに来る。その人はきっと微笑んでいる。あの日もきっと微笑んでいた。低いけれど優しそうな声で話しかけられる。私は戸惑う。私は彼のことを知らない。知らない大きな人を相手に私はどうすればいいかわからない。私の目が泳ぐ。大人の男の人はだいじょうぶだという。私は呪われている。私は幼くて何がだいじょうぶなのかがよくわからない。おかあさん、と思う。でも声を出すことができない。背中のむこうで草花が揺れている。男の人は優しい声で何かを言う。私は呪われている。私は自分の身体が言うことをきかないのがわかる。男の人はもう一度だいじょうぶだという。男の人は尚も優しい声で語りかける。でも何を言われたのかが思い出せない。私は私の意思とは遠いところで、何もわからないまま両手を男の人の前に差し出す。どうしてそうしたのかは思い出せない。何を言われたのかが思い出せない。男の人が語りかける。私は目を閉じる。両手に変な感触を感じる。あつい、と思う。驚いて目を開ける。男の人はきっと微笑んでいる。男の人はなぜだかズボンをすこし下ろしている。わたしは両手をあついと思う。
 男の人がいなくなってしまったあと、母親が戻ってくる。両手を前に出したまま固まっている私を見て、戻ってきた母親がどうしたのと声をかける。わたしは何もよくわからないままそこに立っている。何かを言わなくちゃと思う。でも、何を言ったらいいのかわからない。
「おしっこ」
 やっとの思いで口を開く。
「トイレに行きたいの?おてて、どうしたの、それ」
「ちがう、おしっこ、したの、おとこのひと」
 母親がもう一度私の両手を見る。凄い勢いでティッシュを探して手渡し、見たことのない張り詰めた顔で、それ拭きなさい、帰るよ、といって私を腰から掴んで持ち上げる。急いで自宅まで運ばれながら、母親の、ごめんね、お母さんが離れていたから、ごめんね、と繰り返す声を聞き、お母さんは悪くないのに、と思う。自宅の洗面所まで連れて行かれて、すごい量のハンドソープで手を洗うように言われる。きたないばい菌だからいっぱいバイバイしようね、ごめんね、お母さんが、蒼衣のことを放っておいたから、ごめんね、と、泣きながら言う母を尻目に、私は何度も何度も、言われるがままに、両手を洗い続ける。私のすべすべの頬を、ふがいなさの涙が伝う。おかあさんはなにもわるくないのに。そう思っても声が出ない。ただすべすべに涙が伝うだけで、私は手を洗う以外に何もできない。
 洗面台が生み出された泡でいっぱいになる。母親は泣いている。私は、呪われているのだ、ずっと。

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