『たまごの祈り』㊾

 ほどなくして、由香里さんがやってきて、私はなにもやましいことはしていないのになんだかどきっとしてしまった。由香里さんが来たのが透子と話をしているときじゃなくてよかったと思った。
「ねえ、直也まだ来てない?」
「まだ見てないですね」
「そっか、じゃあちょっと外で待ってみる、今村の顔見たら逃げ出すかもしれないし、あいつ。展示は直也と話してからゆっくり見ることにするわ」
 由香里さんがそう言って来た方向に戻ったところで、今村くんが入れ違いで戻ってきた。今村くんは運命の人とすれ違ったのに、もうなんとも思わないのかなと考えたら、なんだか釈然としない気持ちになった。
「伊田さん、お昼まだでしょ。受付代わるからお昼出ていいよ、もうすぐ柳さんも来ると思うし。一時間くらい出てきなよ」
 確かに、言われてみればお腹が空いていた。私は受付を今村くんに任せてお昼に出ることにして、繁華街まで出て行った。

 細い階段をのぼり、チェーンで展開しているパンケーキが有名なカフェに入ると、窓際の席に通された。外を見ると、たくさんの人々が行き交っていて、今日も人はせわしなく動いているんだと思った。私は、今日を人生で初めて自分の作品が出ている展示会を開いた特別な日だと思っていて、感慨深い気持ちになっていたのだが、人によってはいつもの一日かもしれないし、もっと重大な日なのかもしれなかった。
 人々のうねりの中に、こちらに進んでくる直也くんと由香里さんが見えた気がした。少しして見失い、似た人かと思って、たまごカツサンドとコーヒーを注文していると、二人が同じカフェに入店してくるのが見えた。何となく下を向いて様子を伺っていると、私のいるところから磨りガラスを挟んで前の座席に通されたことがわかった。すでに注文を済ましてしまい、むやみに席から動くわけでもないので、なんとなく落ち着かない気持ちでいると、私のテーブルにサンドイッチとコーヒーが運ばれてきたので、ひとまずそれを食べることにした。
 最初に重い口を開いたのは由香里さんだった。
「何してたの、三ヶ月も急にいなくなって」
「むしゃくしゃして疲れてたんだ、俺、心配かけたのは謝るよ」
「ちゃんとご飯食べてたの」
「食ってた、食ってたよ」
「そう、ならいいけど」
「何なの、やなぎんに由香里と話せって言われたから、俺来たんだけど」
「ふうん、じゃあ、直也からは話したいことないの?」
「いや、べつに…」
「へえ、じゃあ訊きたいこときくけどさ、直也さ、なんで急に別れようとか言ったの」
 私は具があふれ出るカツサンドに苦戦しながら、聞こえてしまう会話を、悪い気もしながら聞いてしまっていた。直也くんが見つかってから、家で泣きながら直也くんに話をした柳を思い出して、二人が納得いくまで話ができますようにと願った。
「それは、電話でも話したじゃん、俺とお前じゃ釣り合わないんだよ」
「なにそれ、そんなに私に不満があるなら言えばいいじゃん」
「ちげーよ、悪いのは俺なんだ、俺がさ、もう由香里のこと幸せにできねえと思ったんだよ」
「なにそれ」
「だから、俺がこんなふらふらしてっから、由香里に苦労かけるだけでさ、幸せになんてなれねえんだよ」
「は、だからなにそれ、誰が決めたの、あんたが勝手に決めたんでしょ、私の気持ち無視してさ」
「由香里だって今村とかああいう奴のほうが好きなんだろ」
「は?なに、嫉妬してんの?」
「嫉妬とかじゃねえし、客観的に見てそうだっつってんだよ」
「今は私らの主観の話じゃないのかよ」
「じゃあ何なんだよ、急に留学先から男連れ帰ってきたのはそっちだろうが」
「それはさ、違うじゃん、今村とはほんとになんもないしさ」
「どうだか、やっぱ価値観合うんじゃないの、同じ海外の空見てきた奴のほうがさあ」
 しばらく沈黙が続いたので、どうしたのかと思ったが、どうやら由香里さんが泣いているようだった。直也くんが、おい、とか、泣くなよ、なんだよ悪かったよ、とか、そんなようなことをまごまごと口にして困っているようだった。
「なんなの、そんなわけないじゃん、なんなの」
「ごめん、由香里、ごめんって、泣くなよ」
「私は、そんなあほな嫉妬されるつもりでさ、直也を置いて留学に行ったんじゃないんだよ」
「わかってるよ、ごめんって」
「わかってないよ、私が誰と居るときが幸せだって、誰が決めんだよ、自分で決めさせろよ、あんたが勝手に決めることじゃないよ」
「わかったごめん」
「わかってんならさあ、あんな風に別れることないじゃん」
「ごめんって」
「直也はなんなの、私と居ても幸せじゃなかったの、私は幸せだったよ、直也といるのが幸せだから別れたくないって言わせてくれても良かったじゃん、急に留学前に振ることないじゃん」
「でも、それは、お前が将来のこととかちゃんと考えてさ、留学とか行ってるの知ってたから、俺なんかとつるんでたら、足ひっぱると思ったんだ」
「私はそんな風に思ったことない、私は私がやりたいから留学だって行ったし大学出たら会社で働こうって決めてる、でも直也は、直也が好きで選んで、幸せだから、芸人やってんじゃなかったの?」
「それは、でも、ぜってえ苦労するし」
「苦労すんのわかっててもやりたいんじゃなかったのかよ、いいじゃん、お互いやりたいことやりながらさ、補い合えばいいんじゃないの、たまにばかやって笑ってるのが幸せなんじゃないの?」
「でも、お前元気なかったじゃん最近全然笑わなかったし」
「それは直也が元気なかったからでしょ、心配じゃん、あんたは勝手に一人で思い詰めてほんとばかみたいだわ、ほんとばか、ほんとに、喋ってくれてもよかったじゃん、喋んないとわかんないよ」
 そのまましばらく由香里さんは泣いているようだった。いつだったか、柳が、二人は本当に恋人同士で、とても羨ましいんだと話していたことがあったなと思い出した。柳が羨ましがるのがわかった気がした。彼らはちゃんと恋人同士として、人間同士として、自分たちの人生と向きあおうとしていた。
「うん、ごめん、俺が悪かったよ」
「なに、じゃあ、どうすんの」
「俺が悪かった、お前、今村とはほんとに何もないんだよな」
「まだ疑ってんの」
「だってお前、執拗に俺と今村を会わせようとしてきたじゃんか、変だろ、あんなの」
「それは、直也が後ろ向きになってんのがわかったからじゃん」
「どういうことだよ」
「もっと、純粋に自分のやりたいことをしっかり見てた瞬間を思い出せってことだよ、やりたいことやってる人間の目を思い出せってことでしょうが。今村の目がさ、直也が頑張ってたときと同じだったんだ、だから会ったらなんか思い出すと思ったの、直也がまた素直に幸せに頑張れた方が絶対にいいって思ったの。でも会って話さないとわかんないじゃん、うまく言えないけどさ。勝手に勘違いして嫉妬してんじゃねーよ」
「ごめんって、わかった、わかったから」
「うん」
「急に別れ話してごめんな」
「うん、ふざけんなよ」
「うん、悪かった、元気なくてごめん、急にいなくなってごめん、でも俺なりにいろいろ考えたんだ」
「うん」
「由香里、ごめんな」
「いいよ、幸せに生きてくれたら許すよ」
 由香里さんは長いため息をついて、疲れた、甘いもの、と呟いて、パンケーキを注文したあと、お手洗いに席を立った。私はコーヒーを飲み終わったので、もう二人は大丈夫だろうと思って、会計に席を立ってカフェを後にした。

 会場に戻ったら、柳が受付に座っていたので、なんとなく隣に座って、出会ったころのことを思い出していた。あの日パイプ椅子に座っていた私を柳が見つけてくれなかったら、どうなっていただろうとぼんやりと考えた。
「伊田、もう休憩はいいの?」
「うん、カフェでご飯食べてきた。柳は?」
「おれは来る前にちょっと食べてきたから、このまま閉めるまでここにいるつもり」
「そっか。さっき、カフェで直也くんたちを見かけたよ。話しかけらんなかったけど」
「へえ、そっか、直也来てたんだ、よかった、大丈夫かな、直也と由香里さん」
「うーん、たぶん、大丈夫なんじゃないかな」
「うん、そっか、ちゃんと会ってくれたならいいんだ」
「そうだね」
「ねえ、伊田」
「なに?」
「今日の夜さ、ラーメン食いに行かない?」
「いいね、久しぶりにあれ行きたい、煮干しラーメン」
「やった、俺もそこがいいと思ってたんだ」
「よし、決まりね、懐かしいね」
「うん、あれはまだ一緒に住み始める前だもんなあ」
「そっか、そうだった」
「ラーメン食って、アイス買って帰ろう、あの日みたいに」
「うん、そうしよう」
 私は、ちいさな革命が起きたあの日、ぽっかりと浮かんだ月を、白い息を吐きながら帰路についたあの日を、ほとんど奇跡のように思い出すことができた。その日のことを柳も覚えていたことが嬉しくて、今日は私もチャーシュー麺を食べよう、すごい大人みたいに、と言ったら、柳は、いいね、と言って清らかに笑った。

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