『たまごの祈り』㊹

 その日、外では霧のような雨が降っていた。私はちいさな折りたたみ傘しか持っていなくて、柳は白いパーカーのフードを被って、並んで駅の改札を抜けた。
 駅前ではたくさんの若者が並んで、道行く人に声をかけ、チケットを売っていた。五百円でお笑いライブやってます、どうですか、駅からすぐの会場です、俺たちも出ます、十九時からライブどうですか、と、しきりに勧誘の声が飛び交った。
 彼らの日常の中にチケットを売ってライブをやるということがあって、彼らは実際に舞台に立って、それから、それから、本当にどうやって生きているのだろうと思った。普段生きていて関わることのない、見るとしたら何かの舞台に立っている立場の人が、路上で直接チケットを売っているということが新鮮だった。直也くんもこんな世界で生きているのかと思うと、とても不思議な気持ちになった。
 ライブ会場の近くで会った直也くんは、とても不機嫌そうに炭酸の缶ジュースを飲んでいた。
「やなぎん、俺は今日お前に会いたかった。今日はお前と伊田ちゃんと茨城から来てる俺の熱心な追っかけである現役女子高生のためにネタをやるはずだったんだ」
「おう、お疲れ」
「なのに何なんだあの今村とか言う奴は」
「今村くんもう来てたんだ。由香里ちゃんも来てるの?」
「もう二人とも中に入ってるわ。今村って奴まじ馴れ馴れしくていけ好かん」
「直也も充分馴れ馴れしいと思うけど」
「俺のはおちゃめだからいいんだよ」
「ふうん」
「やなぎんさ、マジでなんでこないだ俺のライブ来たって、由香里に言っちゃったの」
 直也くんは空になった缶を地面に置き、真上からぐしゃりと踏みつけた。空き缶はきれいにプレスされて弛みのない弧を描いた。二人を眺めながら、退屈を吸い込んで空を見ると、空き缶と同じかたちの月が浮かんでいた。
「別にいいだろ」
 私はあたりの闇が鮮やかに青いうちの、黄身みたいに丸い月が好きだなあと思った。
「いいけどさ」
 直也くんは空き缶を自動販売機の隣にあるごみ箱に乱暴に投げ入れた。ごみ箱からはストローの刺さったプラスチック容器が飛び出していて、空き缶は弾かれて地面に落ちてしまった。それはからんと乾いた音を立てた。

 舞台の上に立つ直也くんは、淀みなくしゃべり、よく笑い、とても調子よく振る舞って見えた。
 舞台を終え、追っかけの女の子に愛想良く挨拶をしたあと、直也くんは魔法のように、すっかりと夜のなかに消えていってしまった。
 そこからしばらく、直也くんはどこにも帰らなかった。

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