『たまごの祈り』㊼

 直也くんが見つかったらしいと柳から電話が入ったのは、アスファルトの熱気から逃げ出すように、木陰のベンチで休んでいた午後のことだった。買い物帰りのスーパーの白いビニールには水滴が張り付いていてベンチの表面を濡らした。辺りからはじわじわと染み出すような蝉の声が響いていた。私は五百ミリリットルのペットボトルを手に取り、レモンティーをごくごくと流し込んでいたところだった。ボトルの表面に浮かぶ水滴をさわる手が冷たく、心地よかった。
「直也くん、どこにいたの」
「埼玉の漫画喫茶にずっと寝泊まりしてたらしい。ねえ、直也一旦うちに連れて帰ってもいいかな?話がしたいんだ」
「いいけど、私これから買い物終わったし帰るつもりだよ。大丈夫?図書館とかで時間潰して帰ろうか?」
「いいよ、うちに居てもらって問題ない。じゃあ、一時間後くらいには直也と一緒に帰るから」
 せわしなく切れた電話を見つめ、私も家に帰ろうと思い、隣に置いていたペットボトルのキャップを閉めた。濡れた手をシャツで拭ったが、しばらく日向を歩くとすっかり渇いていて、出かけるまえに洗濯物を干してこればよかったなと思った。日差しを受けた後頭部が熱くなって、ビニールを持っていない方の手で頭に当たる陽を遮るように押さえながら歩いた。

 家に帰って三十分ほど冷房を回すと、外の空気が嘘みたいに部屋が冷たくなって、しばらくソファに寝そべって文庫本を読んでいた。スイングする冷房の風に当たったページが時折静かに揺れた。
 しばらくすると、玄関が開く音がして、柳のただいま、という声と、直也くんのうわこの家めっちゃ涼しい、という声が重なって聞こえた。どうやら二人が帰ってきたらしかった。ひさしぶりの直也くんの声は思ったよりも元気そうだった。
「伊田、ちょっと入ってもいい?直也が伊田に謝りたいってさ」
 謝られることもないとは思ったが、直也くんの顔は久々に見たかったので、どうぞ、と言いながら文庫本に栞を挟んでテーブルの上に閉じた。
「伊田ちゃんごめんね、心配かけてさ、これお土産」
 直也くんは部屋に入るなりテーブルの上に洋菓子店の箱を置いて、ここのプリンめっちゃ美味いからみんなで食おうぜ、と言って笑った。少し痩せたようだったが、柳がとても心配していたのもあり、元気そうな顔を見ることができて私も安心した。せっかくプリンがあるので、リビングに行ってお茶を用意することにした。
「で、やなぎんは伊田ちゃんと進展したの?もう結婚した?」
 トレーに乗せてお茶を運んで来たところでそんなことを言うので、思わず笑ってしまった。直也くんはすでにプリンを半分以上食べ終えていた。相変わらず自分のペースで接するのが上手いなと感心した。
「結婚してるわけないだろ、そういうお前はどうなんだよ、由香里ちゃんにすごい心配かけてんじゃないの?」
「あいつ怒ってるだろうし気まずいしわかんないや、それよりお前らもプリン食おうぜ、これ、すごいの、名古屋コーチンの卵だって、知ってる?名古屋コーチン」
「ごまかすなよ」
 柳がいつになくイライラした様子で直也くんを睨んでいた。
「由香里ちゃんは本当にお前のこと心配して、探してくれてたんだぞ、三ヶ月もふらふらしてさ、理由があるならちゃんと由香里ちゃんに説明してやれよ」
「関係ないだろ、お前には」
「関係あるだろ、どれだけの人に心配かけたと思ってるんだ」
「心配かけたのは謝るわ、けどさ、てめえは俺と由香里の話には関係ねえだろっつってんだよ、俺らもう別れてんだからさ」
「別れたことにも由香里ちゃんは納得してないんだから、ちゃんと話すべきだろ」
「なんだよその話、由香里が言ってたのかよ」
「ああそうだよ、聞いたよ全部由香里ちゃんから、お前一方的に電話で別れ話したらしいな、しかもろくに理由も言わずに、最低だよお前、なに由香里ちゃんからも生活からも逃げてんだよ」
「うるっせえなだからてめえには関係ねえだろ」
「じゃあせめて由香里ちゃんにはちゃんと話せよ、由香里ちゃんには関係あるんだからな」
「知らねーよ、もうあいつ今村とかいうやつに乗り換えてんじゃねーのかよ」
「そんなことあるわけないだろ」
 柳がテーブルをバンと勢いよく叩いた。お茶がトレーの上に少しこぼれてしまったので、私はティッシュペーパーを取ってきてそれを拭いた。横顔を尻目に見ながら、柳はこんな風に怒ることもあるんだなと思った。しばらく沈黙が続いた後、直也くんが口を開いた。
「ごめんな伊田ちゃん、空気悪くしちゃって」
「いえ、全然」
「やなぎん、俺、お前のこと羨ましかったんだ、ずっと」
「なんだよ急に」
「やなぎんは自分の持ってるものが見えてねえんだよ、だからそんなことが言えるんだ」
「どういうことだよ」
「俺、好きでお笑いやってて、でも全然上手くいかなくて、賞レースも全然勝てねえし、オーディションすら受かんねえし、もう辞めてやりたいって、何回思ったかわかんねえ。辞めてえのに辞めたくねえの。自分で選んだのに死ぬほど辛えの。みんな上手くいってるように見えんの。死にたくなんの。もうだめだって何回も思った、飯も食えねえ、金がねえからってバイトなんかしてたってどんどん無駄な時間が過ぎていくだけだ。こんなんじゃ由香里のことだってちゃんとできるわけない、俺と一緒にいたってあいつは幸せになんねえ、あいつはまともだよ、俺が稼がなくたってあいつ一人の分くらいならあいつは自分でしっかり稼げるだろう、勝手に逞しく生きて行けんなら、もっとちゃんとしてて、もっと近くにいれる奴といたほうが、あいつ幸せになれんじゃねえのかよ、なあ、俺と一緒にいてもあいつ、全然面白そうじゃねえんだよ、全然笑わねえの」
 直也くんはそのまま表情を失ったように話し続けた。彼は呪いを、自分を苦しめた呪いを、やっとのことで、無表情のまま、絞り出していた。
「俺、前に、へらへらしながら、お前に、もうお笑い辞めようかなって言ったんだ。そんで、お前はなんで写真撮ってんのって訊いたの。そん時にお前、なんて言ったと思う?」
 柳はじっと直也くんの声を聴いていた。こんなに辛そうな二人を見ていると、どうしたらいいかわからなくて、私も石のようにそこから動けずにいた。
「お前、普通になるために写真撮ってるって言ったんだ」
 柳はじっと自分の膝を見つめていた。
「ふざけんなよと思ったね、何すかしてんだよって、かっこつけんじゃねえ、意識的にもの作ってる奴が評価を気にせずに作ってるわけないんだ、お笑いやってりゃうけなきゃ意味ねえ、普通のこと言ってちゃ意味ねえ、面白くなきゃ意味ねえ、普通でいいわけねえんだ。お前、写真好きだよなあ?いいカメラ使って、ここだって決めて、シャッター切ってるわけだろ?なのに何だ?普通ってなんだよてめえ舐めてんのか、それで幸せそうな顔しやがって、ふざけんなよ、いつだってお前の方が評価されてきたよ、お前はかっこいいし、高校のころから美術展で賞だって取ってて、それで普通ってなんだよ。そもそも由香里が俺のこと好きだってのもおかしいんだ、本当はお前や今村みてえな才能ある奴のことが好きなんだろ、あの女は」
「ふざけてんのはどっちなんだよ」
 柳が突然直也くんの胸ぐらを掴んで叫んだ。柳は静かに怒りに震えて泣いていた。
「俺のことはいい、俺のことはどう言ってくれたっていいけど、由香里ちゃんは本気でお前のことを考えてるよ、一番近くで見てきて、それもわかんねえのか」
「うるせえよ、あんなの、芸人なんかになる俺が珍しくてなんとなく近くにいただけだろ、だからちょっと留学行ったくらいで今村みてえな変なやつになびくんだ」
「違う、由香里ちゃんが今村くんと友人関係を続けているのは、お前のためだ、お前の目を覚ます為なんだよ、そんなこともわかんねえのか」
「他の男といちゃいちゃ喋ってんのを見せられてなにが俺のためだよ、俺は眠っちゃなんかいねえずっと正気だよ、今回だってやべえと思ったから自分で考えて休んでちゃんと戻ってきたじゃねえか、もうほっといてくれ、何も口を出すな」
「ほっとけるかよ、お前がいちばんわかってんだろ、自分で自分を不幸にしてるって」
「うるせえ、恵まれた奴が不幸な奴の気持ちわかるツラして近づいてくんじゃねえ、お前はいいよな、伊田ちゃんみたいな献身的な子も近くに居てさ、おれたち付き合ってませんだって?都合よすぎんだよ、頭おかしいのか」
「俺たちがどう見えてるのかは知らねえけど、俺らは俺らでいいだろ、今のお前になんも言われたくねえよ。お前らにもお前らで話さなきゃいけないことがあるんじゃねえのかよ、ちゃんと由香里ちゃんと話しをしろ、お願いだ、お前が不幸になるのは見たくないんだ、お願いだよ」
 柳は掴んでいた胸ぐらの手を緩め、そのまま崩れ落ちるように床に倒れ込んで泣いた。お願いだから、話をするだけでいい、と言って、ほんとうに恐ろしい夢から突然目覚めた子供みたいに静かに泣き続けた。
「うるせえな、わかったよ」
 直也くんは静かにそう言って、俺もう帰るわ、と言って、隣に置いていた鞄を掴んだ。
「直也」
「何だよ」
「今度、伊田と今村くんが二人展やるんだ。俺も少しだけどポストカードを置くからさ、来てくれよ、由香里ちゃんも来るんだ」
 直也くんは、悲しそうに笑いながら立ち上がった。
「そんなもん見たら死にたくなるに決まってんだろ。やっぱ頭おかしいよ、おまえ」
 直也くんは遠くを見つめるようにして、一度も柳と目を合わせないまま、部屋から出て行こうとした。
「見に来て、いちど由香里ちゃんと話をするだけでいいんだ」
「わかったよ、行くから、そんときだけ行って話すから、その代わりもう二度と俺らのことに口出すんじゃねえぞ」
 そのまま直也くんは食べかけのプリンを置いて帰って行ってしまった。玄関の鍵をかけ、部屋に戻ると、柳は、床に倒れ込んだままいつの間にか眠っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?