『たまごの祈り』㉗

「怖い夢をみてたの」
 甘い香りのする白く重たい液体を土鍋に注ぎながら、私はふいに、こんなことは柳に聞こえなくてもいいと願いながら、小さくつぶやいた。
「え?」
 柳がまるごと買ってきてしまった立派な白菜を洗っていた手を止めて、聞き返したのをみて、ああ聞こえていなかったんだなと、妙に安心した。コンロの火を着けて、暖まっていく液体から泡が上ってくるのを待っていると、柳は濡れた手を丁寧に拭きながら、猫のようにゆったりとこちらに近寄ってきて言った。
「眠ってたの?」
「聞こえてたの?」
「おれ、耳いいんだ」
 へへ、と得意げに笑う柳を見て、ほんとうは私は、すごくこの人に話を聞いて欲しかったのかもしれないな、と思った。
「どんな夢?」
「食べきれない白菜に襲われる夢」
「うっそ、正夢じゃん」
「嘘だよ」
「なんだ、むやみに嘘ついたらだめなんだぞ」
「たまにくだらないことって言いたくならない?」
「わかるかもしれない。となると、伊田の嘘は必要悪だな」
「必要悪?」
「そう、嘘だけど、嘘でもそういうくだらなさって人間のガス抜きのために必要なものだと思う、たぶん」
「でも嘘は悪なんだね」
「うーん、少しでも嘘があると何となく、まっさらな正義であることって、ないと思うんだよね、おれ」
「なるほどね」
「で、ほんとはどんな夢見てたの」
 私の隣に立って白菜を手に取りながら、柳はちょうどいい声色でそれを尋ねた。柳というひとは私にとってきれいに適切だった。私は、その適切さに無闇に甘えるのが怖くて、話したことによって気を遣わせるのではないかとか、そもそも話をしていいことなのかどうかとか、いろんなことを考え迷って、結局曖昧にすることにした。
「昔の夢」
「そっか」
 白菜は柳の手によって、まな板の上できれいにふたつに分かれ、倒れた。
「夢の話はまた今度ね」
「うん。ぜひ聞かせてよ」
 手際よく適切な四角に切り分けられる白菜に、私はなりたかった。いっぱいの白菜は、魔法のように、どんどんお鍋に入れるためにちょうどいい姿になっていった。それも、柳の手によって。私は、それがとても羨ましかった。
 私は、適切になりたかった。
 耳の裏から、ぼこぼこと泡立つ鍋の音が聞こえた。

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