『たまごの祈り』㉙

 駅を背に右に折れて、ぎらぎらとした商店街を抜けたところに、手書きの小さな看板と、地下へと続く階段があった。階段を下ると、受付にいた三つ編みの若い女の子がチケットを確認し、アンケート用紙と数枚のフライヤーを手渡してくれた。並べてあるパイプ椅子から、観客が好きな座席を選んで座っているらしかった。 私はこのようなライブハウスでお笑いのライブを観るのは初めてだったけれど、この地下の空間の匂いをとても気に入った。早めに着いたからか人はまばらで、私と柳は前から三列目の右端から詰めて腰を下ろした。場内では控えめな音量でゆらゆら帝国の『すべるバー』が流れていたので、私は誰がこの曲を流すことを選んだのだろうと考えながら上着を脱ぎ、たたんで膝の上に置いた。
「直也のコンビの出番、三番目だって」
 ほら、このアンケートの上からみっつめ、と言いながら、柳が指をさしながら教えてくれた。直也くんは「円環論」というコンビ名で活動しているらしかった。へえ、知らなかった、直也くんってなんとなくカタカナのイメージだけどコンビ名漢字なんだね、と言うと、確かにあいつカタカナっぽいよな、わかるよなんとなく、と柳はすこし笑った。柳はそのあと、「シベリアンダルメシアン」が直也くんと同じ事務所の先輩で、「宇宙人ダニエル」というピン芸人が養成所時代からの同期らしいと教えてくれた。私は、お笑いの事務所に入る前に養成所というお笑いの学校のようなものがあることすら知らなかった。同じ年齢の人が、高校を出てすぐお笑いの専門学校に入り、もうプロとして仕事をしているということを考えると、気が遠くなりそうだった。私は、自分が何をして生きていくかどうかなんて、何一つ決めていないようなものだった。考えているうちに会場が暗くなって、大きめの音量でナンバーガールの『透明少女』が流れた。私はますますこの空間が好きになった。

 舞台に立つ直也くんは、当たり前だけれどうちに来たときよりずいぶん堂々としていて、すごく楽しそうで、何だかとても魅力的だった。直也くんは雷のようなエネルギーに満ちていて、漫才はぶつかり合う電気みたいだった。直也くんは「金の斧銀の斧」のコント漫才のなかで、絶妙なテンポで湖の中から出たり入ったり溺れたりしていた。私がライブのなかで最も気に入った宇宙人ダニエルは流暢な日本語を話す黒人だった。
 お客さんがみんな笑っているのを見て、この人たちはほんとにすごいことをしているんだなと思うと、とても羨ましいきもちになった。この舞台に乗る人々は、もうほとんど人生を決めているのだ。幼い頃に見たテレビ画面の中で格好良く映った芸人に救われたり、日本語学校の授業で見たお笑いに憧れたりして、彼らはすでに何をして生きていくか決めて、自分の足で力強くそこに立っているらしかった。それはとても遠い世界のことのように思えた。

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