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目が合わないからいいんじゃない? 『イニシェリン島の精霊』

パードレック(コリン・ファレル)はある日突然、親友だと思っていたコルム(ブレンダン・グリーソン)から絶交を宣言される。だが、パードレックは全く身に覚えがない。

The Ugly, The Ugly and The Ugly

なぜコルムはパードレックに突然絶交を宣言したのか。まず私たちの意識はそちらに向く。
しかしその謎はコルムにとって特に隠された秘密というわけではない。彼は早々にその心持ちを喋ってくれる。
曰く、自分の人生を有意義に使いたいから、退屈な人間と使う時間はない、ということだ。
ここで悲しくも「退屈な人間」と評されてしまうパードレック。コリン・ファレルの困惑に満ちた表情が彼の純朴な善良さを端的に表している。パードレックは、だからまさにその通りで「良い奴」なのだ。だがコルムにとっての問題はパードレックが、本当にただ「良い奴」なだけだという点にある。「良い奴」であることと「退屈な人間」であることは両立する。それでも、閉鎖的で、本土の内戦は対岸の火事で、若干因習めいてもいるイニシェリン島ではパードレックの純朴な善良さはなんら非難されるものでもないし、島の人たちもパードレックのことを問題視してきたことはなさそうに見える。
ところがコルムは曰く、”考える人”である。音楽家である。不安の病に襲われ、自分がこのままイニシェリン島で朽ち果てていくことに恐怖を覚える。だから良きように生きるために退屈なおしゃべりに浪費される時間という愚かしさを引きはがそうとする。無駄話をしないためだったら指だって切り落とすぞというのがコルムの覚悟である。だがヴァイオリンのために、ヴァイオリンを弾く指を切り落とすなどというのは本末転倒ではあるまいか。それこそ愚かしさの権化ではないだろうか。コルムも結局は閉鎖空間内の愚か者の一人にすぎない。
そんな中にあって島一番の賢者はパードレックの妹・シボーンである。コルムがモーツァルトの生きた年代を巡ってシボーンから訂正される一節がわざわざ用意されていることからもシボーンのコルムに対する優勢は顕著だ。シボーンはゆえに、この愚かしさvs愚かしさの戦争を公正さの観点から眺めるただ一人の人物として設定される。だが、そんな彼女でもそのあまりの愚かしさに耐えきれなくなり、最終的には島を出ていく。

終盤。物語が大きく動き出すのもこの時だ。シボーンが島を出たタイミングでパードレックの愛ロバが不慮の死を遂げる。死因はコルムが投げつけた指を誤嚥したことによる。この事故によってパードレックもとうとうプッチン切れてしまい、仁義なき戦いがいよいよ幕を開け、そろそろ戦争終結だと思っていたコルムは宣戦布告を喰らう。
もうここまでくるとどうしようもない。ロバの死をきっかけに二人の関係はポイント・オブ・ノー・リターンを迎え、あとはどちらかが死ぬまで続く憎悪の闘いが始まりを迎える。
だが結局のところ、パードレックも悪人ではない。コルムの家を燃やすのが彼の最大の報復行為だ。それもあらかじめ燃やすと宣言したうえで燃やす。直接的に命を奪う殺人行為ではなく、生きるも死ぬもコルムに委ねたうえで火をかける。家が燃える。

向かい合ったり、向かい合わなかったり

火をかけた直後、家の中を覗いたパードレックはその中でタバコを吸うコルムの姿を見かける。コルムは、だから火に焼かれて死んだのだと誰もが思う。でも死んでいない。翌朝、彼は海辺に佇んでいる。
二人は向かい合うことはもはやできない。向かい合ったら闘わなければならないからだ。ここでコルムは再び和解を持ちかけるが、パードレックはこれを拒否する。だがそれが拒絶ではないことは明らかである。二人は変わらず海を眺めている。こうやって視線を交わさない分には、二人は会話を続けることができる。
パードレックとコルムの関係はパブで向かい合って酒を飲んでいた関係から、喋ることさえ拒否する関係を経て、穏やかに並び合う関係に落ち着く。そこには常に緊張が瞬いており、いつ何が起こるのか誰にも分からないのだが、一方で何も起こらないかもしれない。それは二人のうちどちらかが墓に入るまで続き、片方が墓石となったあとにようやく、墓に花を手向けるポーズによって向かい合うことができるというものだ。それを呪われた関係だと言わずしてどういうのだろう。
そういう呪われた関係の映画として『寝ても覚めても』の印象的なラストシーンをあげることが出来る。『寝ても覚めても』はひどく込み入った話のようにも思えるし、一方でこちらは複雑にしても『寝ても覚めても』ほどは複雑でないように見えるかもしれない。
日本列島とアイルランドの島では空気も建築も眺めも全く異なるということは大いに関係あるだろう。イニシェリン島はどこを切り取ってもフォトジェニーだ。コリン・ファレルがその中を歩き、バリー・コーガンがふらふらしているだけでただ事ではない感じがしてくる。
ところがどちらにも共通するのは、片方が「私のその時したいこと」に素直になりすぎると関係があっという間に壊れるという点にある。『イニシェリン島の精霊』における諸問題はコルムがあまりに安直なせいで起こっているともいえるわけだが、そこはドミニク(バリー・コーガン)を通じて描かれる島の閉鎖性に基づいた愚かさによって丹念な理由付けがなされている。
『寝ても覚めても』も朝子(唐田えりか)の選択がパートナーとの重大な関係破壊をもたらすが、その選択に至る心象の過程を映画はしっかりとフォローしようと努めている。
どちらの映画も、ある選択が決定的に信頼関係を破壊し、もう二度と昔のような状態には戻れなくなってしまった二人が、強烈なクライマックスを経て最後にせめて並び合って立つぐらいの関係性に変化したところに落ちを着けるという点で、実は全く共通している。そしてその時、二人は絶対に向かい合ってはならず、並び立って同じ方向を見つめなければならない。
この呪われた関係の帰結はお互いの目が合うことを許さず、せめて同じ方向を向くことだけが許されるというところに収まる。
だからある面においてその関係が呪われてしまったならば、お互い向かい合わずにとりあえず前を向けと言っておかねばならないのだ。
(2023.2.2)


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