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さすらいをやめたヴェンダースの完璧な日々 『PERFECT DAYS』

ヴィム・ヴェンダースの映画とは、髭を養生蓄えたおじさんが車に乗りながら音楽をかけ、人と人の間を、土地と土地の間をさすらっていく映画だった。西ドイツやアメリカをふらふらとした末に、小津映画の風景を求めて東京をさすらった『東京画』からは40年ばかりの月日が経っている。
再び東京に帰って来たヴェンダースは役所広司を隅田川のほとりで車に乗せる。かかってきた曲はアニマルズの『朝日のあたる家/House of the Rising Sun』。この時、紛れもなく私たちのヴェンダースが帰って来た、と思ったのだった。

雄弁さのかわりになるもの

(C)Wim Wenders Stiftung 2014

『PERFECT DAYS』を構成する映画的モチーフは「車」と「音楽」と「土地」である。これはヴェンダース映画を構成する基本的なモチーフであり、パリ、テキサスは言うに及ばず、ロードムービー三部作、アメリカの友人、ことの次第、さらには夢の涯てまでも、すべて等しくなにがしかの要素を有している。
主人公の平山を演じる役所広司もまた車に乗りながら音楽をかけ、住処のある浅草のあたりから仕事場である渋谷まで出かけていく。リュディガー・フォーグラーやハリー・ディーン・スタントンやブルーノ・ガンツのような、私たちが愛してやまないヴェンダース作品の登場人物のように役所広司もまた移動していくのである。
彼らは住処を離れ、旅に出ていくが、非常にゆったりとした時間の中を生きている。目的地に向かうことは大目的であっても、映画の真の目的地ではなく、むしろその旅の最中にある人や風景との対照こそが映画の愉しみとして提供されている。それが新鮮な悦びであったからこそ、ヴィム・ヴェンダースの映画は多くの人に受け入れられてきた。

そして彼ら無口な旅人たちは旅人になった瞬間から根無し草である。家族や職業があったとしても問題ではない。饒舌さから程遠い彼らだが、しかし周り景色は刻々と変わり、音楽が律儀にも漫然と流れていく。彼らの連れ合い(それはアリス『都会のアリス』や、ロベルト『さすらい』や、リプリー『アメリカの友人』や、息子ハンター『パリ、テキサス』たちだ)が無口な男たちから言葉を引き出し、コミュニケーション弁となっているので、旅人たち自身が無口であったとしても、彼らの存在は連れ合いたちとの関係を通じて物語性を帯び、私たちは彼らの哀愁を感じることができる。
ヴェンダースは主人公となる旅人たちに雄弁さを付与しないかわりに、すべてを尽くして彼らを雄弁に語ろうと試みているのだ。
それは『PERFECT DAYS』でもそうで、ヴェンダース映画においてほとんど例外的に連れ合いをもたない平山という人物を描写するために120分の上映時間をそっくりそのまま費やしている。平山もまた、東京という都市の旅人であり、目的地を持たず、コミュニティから逸脱したヴェンダースのアウトサイダーなのである。

しかし、2024年のいま、リアルタイムでヴェンダースを見るものにとって致命的な問題がここで生じる。
問題はポスターにも書かれた、映画のキャッチである。

問題のキャッチ「こんなふうに生きていけたなら」

いや、キャッチなのだから、映画そのものとは関係ないではないか、というは何度も考えたことではあるけれど、この一文だけは看過できない問題としてたえずのしかかってきた。
なぜなら映画は既に商業的な産物であって、その時点でなにかしらのイデオロギー性を帯びてしまうからだ。2023年12月に『PERFECT DAYS』を見るということはこの商業的なイデオロギーに真っ向から対峙しないといけないということでもある。それにこれが今までのヴェンダース監督作品と同様の作家映画として成立しているならばまだしも、そもそも『PERFECT DAYS』という映画自体が「THE TOKYO TOILET」という行政すら参画する巨大なプロジェクトの一環として制作されていることは忘れてはならない。

アウトサイダーみたいに生きていけない!

上述のように、『PERFECT DAYS』の主人公・平山はヴィム・ヴェンダース的アウトサイダーたちの系譜に位置する。彼らは社会そのものの「適正な」枠組みなるものが存在するとしたら、明らかにその埒外の人間である。
確かに彼は誠実な労働者であり、誠実な消費者である。詩歌散文を感じる心があり、その日常は「完璧な日々」であるように見える。平山の過去にはあまり目を向けたくないようなこともあるだろうが、それは昔の出来事であって今を生きるにあたって問題になることではない。
だが、平山と同じように生きている我々にとって、「完璧な日々」を平山のような生き方でもって過ごすことができるだろうか。
私たちに常にのしかかるのは、将来のこと、家庭のこと、友人関係のこと、仕事のことなど非常に多岐にわたる問題である。一方で平山はそのような煩悩からはほとんど完璧に解脱した立場にあるようだ。親とは絶縁関係にあり、兄妹とは没交渉、仕事をしている間は一人で、孤独を恐れる素振りはない。孤独を恐れない平山の魂を不安が食い尽くすようなことはなさそうなのだ。劇中の彼は漠然とした不安に憂鬱になるようなこともないだろう。
平山の生活はルーティン化された完璧な調和の上に立っており、それはもっと細々とした雑事に振り回される私たちからすると、憧れはあったとしても到底たどり着けない立場である。平山は面倒な関係性を一切合切過去に捨て去っており、綿密な人人コミュニケーションを拒否している。ここが平山の最もアウトサイダー的な部分である。
世の中でいちばん面倒なことは人と人との付き合いにほかならず、それを完全にはぎ取ることで解決した平山の生き方を、「こんなふうに生きれたら」などとコピーでつけるのは一体どういう意図なのだろうか。
『PERFECT DAYS』という映画にほんのりと感じるうさん臭さというのは、この究極的ミニマリストの平山の、平山においてしか成立しないような生活を、理想的生活として称揚するプロパガンダ臭に端を発している。
毎日の昼食を必ずローソンで買い、夜は浅草駅地下の飲み屋で1000円札と小銭数枚を出すこと、銭湯で湯につかること、このような食事・洗濯・入浴、といった生活的な基盤をアウトソーシングする方法は、かつては主流だったろうが、いま普通の務め人が同じ生活を送ることは経済面において看過できない。トイレ清掃員という必ずしも羽振りの良い職業ではないところでできる独身貴族としての最大限の生活スタイルなのだ。
ヴィム・ヴェンダース本人の意図はともかくとして、宣伝によってこのようにレッテル付けをされた『PERFECT DAYS』という映画は安易に小津安二郎の名前を引き合いに出されながら、平山の清貧を理想的なものとして称揚する陳腐さに残念ながら貶められている。

「さすらい」から「反復」へ

映画の宣伝がどうであれ、一方、カメラはイデオロギー性を極力排する形でそこにある。カメラは徹底的にフラットなものとして、平山と平山の見る景色を映し、編集はそれを紡いでいく。映画が何かを一生懸命説話することは拒絶しているし、監督の意図としてなにか教訓めいたものを見出すことはできない。
イデオロギー的にはほとんど真っ白な状態であるからこそ、逆に宣伝の力によってイデオロギー的なものを絶対的に付与することもできる。
だから、今度はあくまで映画に写っているものだけを対象に考えてみたい。

『PERFECT DAYS』がヴィム・ヴェンダースのフィルモグラフィから浮き出ているのは、それがヴェンダース流ロードムービーにおなじみの要素をたくさん持っていながらも、最も重要な「さすらい」のテーマを回避していることにある。「さすらい」とは「移動」の変奏した主題であるが、基本的にヴェンダース流ロードムービーにおいては都市間の移動が問題とされる。
最もわかりやすいケースは『パリ、テキサス』だが、ここでは主人公トラヴィスはテキサスの砂漠→ロサンゼルス→パリ、テキサスへと絶えずさすらっていくことになる。
『ベルリン・天使の詩』のようなロケーションがベルリンに限られるような映画でさえも、実は主人公の天使ダミエルは都市を放浪し、人と人との間を歩いていくから「さすらい」の主題は捨てられていない。
ところが『PERFECT DAYS』では、移動はあくまで必要上の問題であって、最も大事な主題として提起されているのが「反復」のテーマである。

東京のヴェンダース、ニュージャージーのジャームッシュ

Photo by MARY CYBULSKI (C)2016 Inkjet Inc. All Rights Reserved.

ここでただちに想起されるのがジム・ジャームッシュ監督の『パターソン』(2016)である。『パターソン』を見たことのある人で『PERFECT DAYS』を見た人、また『PERFECT DAYS』を見た人でこれから『パターソン』を見る人はその作劇上の相似がすぐにわかるだろう。
『パターソン』ではアメリカはニュージャージー州パターソンに住むバス運転手パターソンの生活が『PERFECT DAYS』のように淡々と、そして絶え間ない反復でもって描かれる。
パターソンは妻のローラ、そして犬とともに日々の暮らしを生きている。労働し、夜は犬の散歩に行く。途中のバーでビールを一杯飲み、妻の隣で眠る。そんな日々の繰り返しである。
映画としての有り様は『PERFECT DAYS』と『パターソン』のあいだでほとんど変わらないのだが、しかし主人公の有り様は二作のあいだで大きく異なっている。
パターソンには妻との生活があり、日々詩を書いている。平山は同じように毎日一枚フィルムカメラで樹々のせせらぎにシャッターを切るが、ファインダーを覗くことはない。パターソンは日々の生活のなかで得た感触を咀嚼し、詩という言葉で表現する。『パターソン』における日常は絶え間ない反復であるが、一方でパターソンの詩は一歩ずつ完成に近づいていく。
習慣の連続で構成される日常と対比するように詩の言葉は一つとして同じものがなく積み重ねられていき、パターソンの詩のノートもまた厚みを増していく。
しかし映画の終盤、飼い犬の悪戯によって詩のノートはめちゃくちゃになってしまい、パターソンは激しく落ち込む。最終的に日本からやってきた詩人との出会いが彼の精神を前向きなものへと変えていくのだが、穏やかで慎ましい日常を描いた『パターソン』の物語において、パターソンの詩作の日々の物語はダイナミズムでさえある。生きていくことの外形、そして言語化すら拒む内面の日々、パターソンはこの内面を言語化しようともがき、監督ジャームッシュはその「もがき」そのものをカメラによって記録することで、内面の動きを総体として捉えようと試みている。この『パターソン』における試みは非常に映画的で挑戦的である。
平山はパターソンと異なり詩人ではないが、詩を感じる心があり、日々の細やかな美しさをそれそのものとして楽しみに享受している。平山はそれを外形として表現はしない。フィルムカメラで神社の樹々を撮る行為はファインダーを覗いていない以上、作為を排除した自然の記録でしかなく、現像された写真の中から撮影に失敗していないものを缶に詰め、日付によって分類し、棚に収納していく行為は芸術家っぽくもあるが、パターソンの詩のノートのように劇中では顧みられることがない。
ブルトンを引き合いに出すまでもなく、作為がないから芸術ではないというわけではないが、劇中の様子からして平山は自己を表現する手段としてカメラを用いているわけではない。
結果として『パターソン』が単調な日常と、詩作から浮かび上がる内面が絡まり合いながら時が進んでいくのに対し、『PERFECT DAYS』では淡々とした日常が淡々とした日常のまま過ぎていくだけで、平山の過去になにがあったかとか姪っ子が転がり込んできてどうしたとかいうことは、そういうことは究極的にはどうでもいい。それでは『PERFECT DAYS』が何を描いているのかというと、詩を詠まない平山の生活を詩そのものとして表現しているのだ。パターソンの詩は劇中に出てくるノートに書かれているが、ヴェンダースが平山の姿を「詩」とみてとり、平山を詩に読むように撮ったのが『PERFECT DAYS』という映画そのものである。それが東京におけるヴェンダースとニュージャージーのジャームッシュの根本的なメソッドの違いである。

完璧な日々とはなにか

『神の道化師、フランチェスコ』

ここで映画のタイトル『PERFECT DAYS』(=完璧な日々)とはどういうことなのかということをいま一度考えたい。
「平山の日々は完璧である」ということではないと思うのである。『パターソン』との照応を考えると、「完璧な日々」は平山の生活のことではなく、平山(私)を取り巻く世界は既にして「完璧である」ということではないかと思う。それは政治情勢・社会情勢のコンテクストとも少し違う層にある、現代人が気づきにくい、ささやかなところにさえ美しさは宿っているからスマホを下ろしてちょっと辺りを見回してみなさい、みたいな精神性ではないだろうか。思わずしてキリスト教的な世界観! 

するとしかし、これまで『パターソン』を引き合いにいろいろと語ってはきたが、実はいちばん似ている映画としてあげられるのはロベルト・ロッセリーニ監督『神の道化師、フランチェスコ』(1950)という気がしてきて、これ以上長くなるといけないから詳細は割愛するが、ネオレアリズモの名匠ロッセリーニがアッシジの聖人フランチェスコと修道士たちの日々を描いたこの見事な名作は奇しくも『PERFECT DAYS』と同日の12月22日から新宿シネマカリテでリバイバル上映となっているのでした。
(2024.1.14)

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