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死がそこに、たちずさんて 『ケイコ 目を澄ませて』

寒風吹きすさぶ12月初旬の渋谷で、得体の知れぬほど怪奇的な笑顔を浮かべながら閉館迫りつつある東急百貨店の横を闊歩していたのは私である。ちょうど円山町のユーロスペースでは『ケイコ 目を澄ませて』が封切の初日を迎えていた。
なんのことはない、わずか100分の映画がマスクをしていたりといえども隠しがたい高揚を私の心に喚起せしめていた。それは間違いなく、恐るべき大胆不敵さによって決定づけられた最終盤の展開に驚愕し、そこに思いもよらぬ幸福を感じたからだったのだが、果たしてそれだけだったのだろうかと歩きながら考えた。

ケイコはボクサーを続けるのかどうか悩んでいた。

考えてみると、この映画で明瞭なことはただこれだけのことだった。
映画を見るにあたって知っておかなければならない情報というのは、すべて文字によって語られていた。ケイコが生まれつきの聴覚障害であること、彼女がプロボクサーライセンスを得ていることは字幕によって、そしてケイコ自身がその先の針路について悩み、いったん休みたいという思いを胸の内に秘めている事実は手紙の文字によって、それぞれ明瞭に提示される。
ところが、それ以外のこと、映画の大半の時間を支配するのは純粋に光景と音の世界である。ボクシングの試合の勝敗ひとつをとっても、勝ち負けを明示するのは「勝ち」か「負け」かの言葉ではなくて、レフェリーの動作やゴングや競技者たちの様子からであったはずだ。
ケイコの物語である『ケイコ 目を澄ませて』は彼女の心情に寄り添いつつもそれを言葉によって詳らかにすることはしない。彼女は佇み、行動する。
私たちはそんなケイコに100分間付き合う。カメラはひどく禁欲的に、彼女そのものというよりも、彼女と彼女をとりまく空気を総体的に包み込む。だが、私たちはケイコの感情に実に細かいニュアンスのゆらめきがあったことを理解したはずだ。
誰が説明をするわけでもなかった彼女の心のゆらめきになぜ私たちが思いを寄せることができるのか。それはこの映画が揺るぎなく統率されたルックを持ち、そのすべての構図に無駄がなく、話の展開がダレることなく続いていくからである。私たちは演出家の確固たる意志によってケイコの感情を受け取れるようコントロールされているのである。

観客のコントロール、それはストーリーテラーの条件といっていい。
映画の演出が、物語の内容と密接にリンクして相互に作用しあう例を、私たちはアルフレッド・ヒッチコックと成瀬巳喜男の二人に見ることができる。今年、ここに映画史上の巨人についに匹敵するかのような精度で積み上げられた「映画」が誕生した。
私がマスクの下のにたつきを隠せず、渋谷の往来を練り歩く怪人になったのは、まずこれがためではあるまいか。

沈黙は金

そこでとりあえず私は家に帰り、辺り構わずこの映画を見ることを他人に薦める。とにかく良いから見に行け、と私は言うわけだが、何がとにかく良いのか、ここで私は言葉に詰まる。
第一、映画は言葉の明快さに身をゆだねることを拒絶し、視覚的・音響的な統制のなかで微妙なニュアンスを広げることを目的としている。それを言葉によって説明しなおそうとしたときには当然、うまくいくはずなどない。
台詞は言葉というよりも実に音響的な構築物といっても良いかもしれない。ケイコのここ一番でのみ発せられる「はい」は言うに及ばず、三浦友和演じる寡黙なボクシング・ジム会長の言葉もそのような類のものだということができるだろう。
会長が最も雄弁に語るのは、ケイコのことについてインタビューを受けている時と、ボクシング・ジムの閉鎖をみんなに伝えるときだ。言葉数の少ない会長が言葉を尽くすさまに誰しもが瞑目する。三浦友和の名演は沈黙によって引き立たされた、声のあまりの美しさにこそ存在するだろう。

そして彼が死んでしまった!かくも鮮やかな一瞬のうちに

そんな会長は最後にスィーとどこかへ行ってしまう。
渾身の力をこめて戦ったケイコだったが、試合に勝つことはできなかった。しかし、もはや負けが彼女の歩みを引き留めることはないだろう。
会長は満足そうに伸びをする、そして車いすのロックを解除する。スィーと向こう側へ去っていく。カメラもスィーと下がり始める。
私たちは嫌な予感を感じる。会長はどこへ去っていったのか。

人間は死ぬ。突如として死ぬ。あるいは十分にもったいぶって、人間は死ぬ。映画の中の話である。
この死というやつをある種の大胆さで示唆したのはやはりヒッチコックではないかと思う。彼の最晩年の手になる『フレンジー』のことだが、そこに直接の死はなかった。
扉が開き、人物が中に入っていく。扉が閉まる。カメラが下がる。下がって、下がって、階段を下って、ついにはアパートメントから出ていく。どんどん後退していく。これで人間が死んでしまった。

なんという大胆不敵さだろう。『フレンジー』の故事を思い出した。
会長が消える時に、カメラもまたどこまでも下がり続けるのであった。
しかしあれで本当に死んでしまったのかとまだ半信半疑だ。次のシーンでは閉鎖したボクシング・ジムで引っ越し作業がおこなわれている。そこには会長の奥さんの姿を見とめることができるものの、会長の姿はない。だが、遺影もないし喪に服している様子もない。ただ彼女たちは最後に写真を撮る。
そういえば小津安二郎の『麦秋』でも家族は最後に写真を取っていたなあと思い出す。『麦秋』のそれは解体しゆく家族の最後の瞬間をとらえた美しい一葉の写真であった。
そして、その次には河川敷に座る、あの赤い帽子のケイコの姿が。赤の退色した帽子、言わずもがな会長のものである。かつてはトニー・スコットがかぶっていたものだ。彼女は立ち上がり、走り始める。映画が終わる。それでやはり会長は死んでしまったのだと私は確信した。
2022年はトニー・スコットが死んでから10年目の年だった。そういう年を生きるものなら、そしてなにより私たちがヒッチコックのあとの時代に存在しているならば、やはり彼は死んでしまったのだろう。

主人公は決断を下す。昔ながらのドグマ

このあまりの大胆不敵さがまず私を破顔させた第一の点だった。
誰もが尻込みするような死の表現に監督は真っ向から立ち向かっていった。そしてそれは絶え間なく映画の中を流れていた死の匂いに対する伏線回収のようでもあった。
ケイコはボクシングを続けるかどうか悩んでいた。だが、最後には続けるという決断を下した。
美しい、世にも美しい今では珍しいほど古典的にシンプルな、それでいてもっとも現代的に洗練されていたのがこの『ケイコ 目を澄ませて』という映画であったのだ。
(2023.1.20)

(C)2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS



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