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『異人たち』 孤独な惑星の接近

日記をめくると大林宣彦が監督した『異人たちとの夏』を見たのがちょうど4年前だった。
幼いころに死んだ親との再会を通して前へと向き直っていく話。映画終盤の浅草・今半別館のすき焼きのシーンが忘れがたく、そしてそのあとの驚愕の展開にえも言えぬ感情を抱いた。『異人たちとの夏』は幽霊譚に違いなかったが、人がいるのに人気のない感じというのは夢のようでもあり、想い出のようでもある。人々はそこにあるのに息をしていない。大林宣彦のノスタルジックは影法師がつくりだしている。2020年4月もそのような月で、空は青く、桜も散っていったのに、人々は息を止めながら喋っていた。
その時、ほとんどの人が天地明朗にも関わらず、自分という人間がたった一人であることに気づいたのではないか。確かに他人というものは存在し、ともに働いたり学んだり生活をしたりするのだけれども、究極的なところでたった一人なのではないかと。だって思考や死は自分ひとりの問題なのだから。

『異人たち』という映画はそんな孤独な宇宙のなかの星々の話である。
無論、そこにはその星独自に抱える問題がある。両親をはやくに亡くしたこと、セクシュアリティのことが今回の映画の大きな主題となる。監督であるアンドリュー・ヘイ自身の個人的な体験を織り交ぜたものだという。その点を私が語り切ることはできないし、あまりに浅薄になるからやめておこう。なぜなら「私」の惑星と「アダム」の惑星はまた別々なのだから。
私たちは一個人において特別な存在だが、しかし同時に文明がつくりだした普遍の感受性というものもある。映画に共感したり共鳴したりするとき、そこで起こっていることは「私」のことではないのに、「私」の問題ではないのに、なぜ涙を流すことができるのだろうか。そこが孤独の癒し方へのヒントであるのだ。

アンドリュー・スコット演じるアダムはほとんど誰も住んでいないマンションで暮らしている。彼の孤独な魂を癒す映画である『異人たち』では両親をはやくに亡くしたため果たされなかったことを果たすために「家」を出現させる。
最初はアダムのマンションと両親の家があり、電車に乗ってその間を往還する。だが徐々に現実としてのマンションと非現実としての家が溶けあっていき、境界が曖昧になっていく。クロスディゾルブやガラスによって像を二重写しする方法が極めて効果的である。
マンションで抱える孤独が列車に乗って「家」へ帰ると癒されていく。親とティーンの時間を過ごせなかったアダムがその時間を取り戻すように「家」で過ごすことで彼は癒されていく。現実に何も変わらなくても荒んだ魂が癒されていくやさしさ。そのやさしさが恐らく現代には決定的に不足しているのだ。
私たちはいま歴史の只中にあって、ある種特異な自由を獲得した境涯にあるのかもしれない。そして自由はおそろしく孤独なものだ。その中で誰かを支配したり無関心を決め込むのではない孤独の癒し方を『異人たち』は模索している。2024年を代表する作品である『夜明けのすべて』もそうだし、これから公開される『違国日記』もそういう話だ。『違国日記』で「砂漠」と表現されていたものが『異人たち』では「宇宙」であると思う。そして、アダムが「家」に癒されていった結果、その傍らで孤独を抱えていたハリーを癒すのもアダムである。
私たちは目に見えないものを怖がる。そこに無機性や悪意を時にみとめる。寂しさの正体は恐らく無機の空気である。『異人たち』は映画の魔法が無機と悪意の空気を有機と善意の空気に変える現代の作品なのである。
(2024.4.21)

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