犬は面白い。
太古から尊いもの、有益なものとして扱われていたのに、蔑の意味でも使われる。よくわからない。
犬という漢字の成り立ちも、見れば見るほど「そうはならんやろ」としか思わなくて面白い。

実家で犬と暮らしている。かれこれ15年近く一緒に暮らしている。
一番賢いと言われている犬種なのだが、それもどういう物差しで測ったのかよくわからないし、少なくともうちの犬は賢いとはとても言えない。

両腕に収まるくらい彼女が小さかった頃、私はまだ小学生で、動物を愛でることに躊躇も遠慮も皆無だった。その腕の重さが嬉しくて嬉しくて、無駄に抱えてうろうろしていたところ、犬をうっかり落としてしまったことがあった。
死んだ、と思ったが、幸い大した高さじゃなかったことと打ち所が良かったのか、何事もなく終わった。
あの時の恐ろしさは今でも鮮明に思い出せる。

それが原因かどうかは分からないけれど、うちの犬はおポンチだった。
生まれてすぐに親元から引き離されたから、犬社会の社交性の欠片もない。近所にデカい公園があるので犬とはよく挨拶するのだが、残念ながらどの犬にも嫌煙され、友達はいなかった。小さい犬には威張りちらかし、大きい犬にはビビりちらかしていた。しかし飼い主さんには尻尾を振って近づいていく。
恐らく自分を人間と思い込んでいるのだろう。

そんな彼女が唯一仲良くできた犬がいる。近所に住んでいた柴犬の男の子。飼い主さんも朗らかで優しい方だった。
ウザ絡みするうちの犬に愛想を尽かしそうな顔をしつつもなんだかんだ付き合ってくれている彼を見て、私も犬なら多分惚れていたなと思った。

先日、その彼が亡くなったと聞いた。
ここ最近散歩している姿を見ていないな、と思った矢先だった。

うちの犬よりも少しだけ早く生まれていたから、多分15歳くらいだったのだろう。あのご機嫌に丸まる尻尾や、美味しそうなこんがりした毛並みを見られないと思うと、寂しいというよりは大切なものを無くしてしまったような気持ちになった。

うちの犬は彼のことを覚えているのだろうか。
私が約半年ぶりに実家に帰った時、私のことも忘れていたし、なんなら最近コロナのホテル療養を終えて一週間ぶりに帰った時も「どなたですか」の表情をされた。
そんな彼女だけど、覚えているのだろうか。

一日のほとんどを寝て過ごすようになった犬を撫でると、背骨が随分とゴツゴツと感じられるようになり、白髪が増えた。けれど世界の何処かにある浅瀬のようにキラキラと輝く瞳は、小さな頃から何も変わっていない。

うちの犬は面白い。
別に私のことを家族とは思っていなさそうなところとか、猫という単語が怒り狂うほど嫌いなところとか、家のリビングでうんこを漏らした時の「存じ上げません」という顔とか。(うんこ漏らしは決して許される事ではありません。厳罰を。)

限りある生を、好きなだけ生きてほしいな、と願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?