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あなたの場所

祖父が亡くなって一年が経った。
日が経つにつれ記憶が風化するとか、傷が癒えるとか、そういうものなのかと思っていたけれど、現実は全く違って、今も喪失の悲しみは抉れた生傷のままだし、あの日のことを昨日のことのようにまざまざと思い出す。

その反面、一年経ち「喪失した自分」を徐々に受け入れ始めている気もする。そんな気がするだけで、別に自分が強くなったわけでも、何かが変わったわけでもない。ただ淡々と、日々が過ぎていき、祖父が生きていた日々が過去になっていく。それをただ悲しいと私は思う。人が生きていたことを過去形で語らないといけなくなった時、どうしても語尾が震えてしまう。

そんな弱さを受け入れ、折り合いをつけてこれからも生きていく為に、ここに祖父が亡くなった日としばらくのことを記録しておきたいと思った。決して明るい話ではないけれど、決して暗いだけの話でもない。ただ、この話を過去のものにしたくないという一心で綴ることにする。

祖父が亡くなったのは、八月のよく晴れた日だった。
その日、私は在宅勤務だった。理由はコロナの接触通知アプリに通知が来たからだった。数日間店舗出勤が出来なくなった私は、泣く泣くPCR検査を受けることになり、少しだけ早起きをしたのだ。
隣で寝ていたはずの母が、いつの間にかいなくなっていた。もしかしたら日課のランニングに行ったのかも、とさして気にせずにケータイを触っていた時、母から着信があった。その瞬間に、全てを悟った。第六感とかそういうものかもしれない。電話口の母の声は震えていたが、努めて平坦に事実だけを告げようとしていたことも伝わってきた。
祖父の死を知らされ、私も努めて平坦に、準備をしてすぐに祖父の家に向かうと言った。

祖父の家は、歩いて十分ほどの所にある。
祖父と最後に話したのは、祖父の亡くなる一ヶ月ほど前だった。コロナ禍で接客業をしていると、高齢者に会いにいくリスクを考え、なかなか脚が動かなかった。
それはただの言い訳に過ぎず、この家の距離の近さが、逆に私をこの家から遠ざけていたような気もする。
祖父は癌を患っていた。病院での治療より、自宅で生活することを選んだ。畳の寝室に機械的なベッドが置かれたこと以外は、さして今までの生活と変わらなかったし、祖父もある程度元気なように見えた。
母は毎日祖父の元を訪れていた。日々日々祖父が涙脆くなっているらしい。あの血も涙もないような祖父が、と言いたかったのは、きっと私よりも母の方だったに違いない。その母から、「もっと祖父に会いに行ってあげてほしい」と言われたのは、祖父が亡くなる二週間前ほどだったと記憶している。
部屋を片付けろと言われると今からやろうとしていたのに、とやる気を削がれるように、私は母の言葉に少し苛立ちを感じた。行きたくなくて行っていない訳ではないと、私にも仕事や趣味の予定もあるのだと、そう思った。
最後に祖父と交わした言葉は、「仕事忙しいか?」というものだった。嘘偽りなく、忙しいと答えた。祖父はあまり心配そうな素振りを見せず、むしろあまり気にしてる風でもないように会話を続けた。それはもっと会いたいという痩せ我慢だったのか、仕事人間であった祖父の、孫に対する誇らしい気持ちだったのか、今はもう何もわからない。

祖父が死んだ前の日は、推しの誕生日だった。その推しの為に苺のゼリーケーキを作った。夏だから苺なんて売ってなくて、わざわざ通販で取り寄せた。彼と同じ赤色をしたゼリーケーキを見て、母は「これならおじいちゃんも食べれるかもしれんから持って行ってあげ」と言った。
その日の夜、COCOAの通知が来て、私は自宅待機を余儀なくされた。
結局ケーキを渡すことは叶わなかった。

祖父の遺体を前にして、母と叔父、祖母は式の手続きをしていく。まだ祖父が死んで一時間程しか経っていないのに、その前でお金の話をしている。夏は遺体が痛みやすいからドライアイスを、という話をしているのを聞きながら、私はその部屋を後にした。PCR検査を受けにいく為、バス停に向かう。
この世の青を煮詰めたような、晴れた空だった。日差しが容赦なく地面を焼く。私はその日差しの下で、やっと祖父が死んだのだと実感した。往来だろうが構わず、座り込んで泣いた。
コロナが何だ。COCOAが何だ。推しの誕生日が何だ。仕事が何だ。自分を自分たらしめる全てを恨んだ。全てが嫌になった。それらにかけた熱量を、時間を、愛情を、全て祖父に向けていれば良かったと遅すぎる後悔をした。そんなことをしたって何の意味もないのに、そんなことを考えて自分を慰めるので精一杯だった。
苦しくて吐きそうだった。

葬儀は翌々日に執り行われた。
葬儀の間、私はやけに冷静だった。集中力を欠いていたと言った方が正しいかもしれない。風で揺れる会場のカーテン、ノリのいいラップ調のお経、弊社社長から送られてきた弔電、それらを全て、どこか面白い気持ちで感じたような気がする。
式の途中、祖父が花と鳥が好きだったことを思い出して、あんな人だったのになんてメルヘンな趣味なんだ、と笑ってしまった。
それくらい、なんだか実感のない式だった。
東京から急いでやってきた六つ下の従姉妹は、祖父が生きていたら怒り出しそうなくらいの金髪で、じいちゃん死んでて良かったな、なんて不謹慎なことを考えたのは内緒だ。
ちなみにこの従姉妹の母(私の叔母)は、昔髪の毛を青色に染めて、祖父に家を追い出されたらしい。

火葬場で祖父の骨上げをした時、「驚くほど骨が硬い」と言われた。確かにとんでもなく硬く、とは言え他の人の骨を箸で砕こうとしたこともなかった為こんなものなのかと思っていた。
罰当たりな気はしつつ、祖父の骨を力任せに箸で粉砕しようとした。そのちぐはぐさがちょっとだけ面白かった。

式が終わった次の日、私は沖縄に出張に行った。
人生初の出張。約二十年ぶりの沖縄である。
気持ちの整理も満足にできないまま、激務の地に放り込まれた。オープンしたばかりの新店のヘルプ。けれどある意味助かったと思った。新店で同じ職場の社員さんに久々に会い、安心したのかちょっとだけ泣きそうになった。

沖縄は、とても良い場所だった。穏やかな波も、そこかしこから聞こえる三味線の音楽も。祖父が死んだ日と同じくらい、むしろそれ以上に強い日差しは容赦なく体力を奪ってきたが、それでも沖縄の空は本当に美しかった。
公休日、海を眺めながら散歩をし、祖父に想いを馳せた。三浦大知の『燦々』を聞きながら、祖父の姿を想像する。
机の前、祖父の場所。飼っていた鳥を眺めながら、祖父はいつもコーヒーを飲んでいた。とりとめのない話をたくさんした。昔の部下の話、飼っていた鳥の話、私の昔話。続きをもっと聞かせて欲しかった。
祖父が死んでから後悔ばかりだ。無くなってから気付くとかなんとか、ただの常套句かと思っていたが、もっと汚くて、生ぬるくて、醜いものなのだと初めて知った。これを一生抱えて生きていくなんて、どんなに辛いだろう。これが残された者の責務というのなら、私は生きることをやめたいとさえ思った。けれどそんなことは許されない。汚くて、生ぬるくて、醜いなりに、地を這ってでも生きないといけないのだ。それが祖父に出来る、私の唯一の手向けだった。

家に戻り数日後。祖母の家を訪れると、封筒を渡された。中にはかなりの金額が入っていた。
「おじいちゃんから渡してほしいと生前言われていた。結婚式にでも使いなさい、と」
そんなこと言われても、金輪際そんな予定はない。そう伝えると、祖母は笑って「じゃあ好きなことに使いなさい」と言った。
その後、祖母は続けた。祖父は私のことを友達のように思っていたと。なんだかその言葉は私にとってとても嬉しいものだった。直接言ってくれれば良かったものを、とも思うが、私も言えなかったことがたくさんあったからおあいこだ。
心の中で随分歳上の友に感謝をしながら、私はそのお金を推しの同人誌の作成代に充てた。
というのは冗談だが、祖父なら笑って許してくれるような気がする。

先日、一周忌で地元に帰った。
祖父が生前育てていた植物たちは、一年経った今も青々と芽吹いている。絶対に枯れると思っていたが、祖父の意思を継いで祖母が日々世話をしているようだ。
祖父がいつも座っていた机の前は、今もなんとなくみんな座らずに場所を空けている。別に特別なことではなくて、染みついた習慣なだけなのだろう。
それでも今も、そこに祖父の姿を見る。
幼い頃、なんでこの人はずっともう辞めた仕事の話をするのだろう、部下の失敗談ばかりするのだろうと不思議で仕方なかった。
今はその気持ちがよく分かる。祖父は仕事が、人間が大好きで堪らなかったのだ。
今なら、私もたくさん出来る話がある。面白いたくさんの部下のこと、尊敬する上司のこと、クソみたいな客のこと。
今も相変わらず仕事は忙しいけれど、それは貴方にとっては何にも代え難い吉報なのだと、私は知っている。だから、どうか安心してほしい。貴方の友は、今日も汚く、生ぬるく、醜く生きている。貴方が好きだった、花を、鳥を、言葉を、同じように愛している。
あなたの場所は、今日も空いている。

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