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人がすることはすべて自然現象かもしれないけれど/映画『太陽の子』感想

映画『太陽の子』を観ました。


あらすじ

1945年の夏。軍の密命を受けた京都帝国大学・物理学研究室の若き科学者・石村修(柳楽優弥)と研究員たちは、原子核爆弾の研究開発を進めていた。
研究に没頭する日々の中、建物疎開で家を失った幼馴染の朝倉世津(有村架純)が修の家に居候することに。
時を同じくして、修の弟・裕之(三浦春馬)が戦地から一時帰郷し、久しぶりの再会を喜ぶ3人。
ひとときの幸せな時間の中で、戦地で裕之が負った深い心の傷を垣間見る修と世津だが、一方で物理学に魅了されていた修も、その裏にある破壊の恐ろしさに葛藤を抱えていた。
そんな二人を力強く包み込む世津はただ一人、戦争が終わった後の世界を見据えていた。
それぞれの想いを受け止め、自分たちの未来のためと開発を急ぐ修と研究チームだが、運命の8月6日が訪れてしまう。
日本中が絶望に打ちひしがれる中、それでも前を向く修が見出した新たな光とはーー?

公式サイトより

原子核爆弾の開発を急ぐ若き研究者たちは、みなそれぞれに葛藤を抱えていました。お国のためにと研究に邁進する者、その地道な歩みにしびれを切らし、研究ではなく他の多くの若者と同じように戦地で戦うことを希望する者、科学の力で多くの人を傷つけることになる未来を恐れる者。主人公の修は、とにかく物理学と実験が大好きな青年であり、強大な力を持つ原子核の研究に純粋に魅了されていました。彼は知的好奇心に突き動かされ、研究に没頭しています。
しかし、その脅威的な力に気づいていないわけではありません。戦地から一時帰郷した弟の心の傷も知っています。多くの人を傷つけることになる爆弾を開発していることについて、その是非について問い詰められると、彼は「わからない」といいます。

原爆が落ちた広島に訪れ、自分たちがどのようなものを作ろうとしていたのかを、本当の意味で知った主人公とその研究仲間たち。次に原爆を落とされるのは京都かもしれないという噂を聞いた主人公は、家族には遠くへ逃げるように言い、自分は安全な山の上から、原爆が落ちる京都を見届けようとします。それが研究者としての責務だと考えたのです。しかし、京都の街を眺めおむすびを食べていると、京都や家族が恋しくなったのか、走って降りていきます。
京都に原爆を落とされるのを見届けようとする主人公の考えは、まさにマッドサイエンティストという感じで驚きました。どうすることもできない状況で出した、科学者としての最善の選択でもあります。しかし彼はそうはなりきれなかった。科学の力を信じ邁進する科学者としてでなく、ただの京都市民として生きようと思ったのかなと思います。

再び広島での調査に赴く主人公の心に、アインシュタインと思わしき人物が語りかけます。君も科学が生み出した、破壊をもたらす大きな力に魅了されていたのだと。それを止めることはできない。これは一過程であり、結末ではないと。


科学の進歩によって私も生かされています。もう起きてしまったこの悲しい過去を、未来のための必要な過程だったと思いたいです。しかし本当にそうなのか、あまり進歩のない現在の人類を見ると疑問に思います。このような犠牲を生み出してまで進歩させる必要があるとは、わたしには思えません。

全然関係がないのですが、映画『セッション』を観たときに考えたことを思い出しました。『セッション』は、とてつもないスパルタ教育によって最高の音楽家を生み出そうとする教師が出てきます。そのような厳しい指導を受けることで開花する才能もありますが、中には精神を病み自殺する者もいました。そうすることでしか最高の音楽家は生まれないとその教師は考えていますが、私はそれならば最高の音楽家など生まれなくていいと思いました。音楽は、人を傷付けてまですることではないです。
同じことが、科学にも言えるのではないかと思いました。科学者の止められない好奇心を尊ぶ必要はないです。科学は人類を超えていくでしょう。人がやることは、どれだけ人類にとって危険なことでも、それも自然の一つかもしれません。それでも、それを止めることができないものかのように言うのは違うと思いました。

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