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短編小説|あなたのいきたいところ

【切符の買い方】
 ①お金を入れます
 ②行きたいところのボタンを押します

麻里は目の前の券売機に小銭を投入しながら、お金を払うだけで行きたいところに行けるなんて便利な乗り物だと思っていた。

昨日の夜、ふと思い立ってどこかへ行ってしまいたいと思い、郊外行の電車に乗ることを決めた。

「どこへ行こうか。」と、目的もなくぼんやりと考えていた麻里は、この路線図の中で一番ピンときた名前の駅で降りることにした。

彼女にとって、本当に行きたいところなどなかった。
山に囲まれた田舎町で育った彼女は、地域の中で大切に育てられ、中学校まで代わり映えの無い同級生たちと過ごしていた。
そのまま友人たちと校区の高校に進学し、地元の短大を卒業した彼女は、地元に貢献したいと思い銀行に就職する。

麻里は幼いころ周囲の人間から、大切に育てられているという自覚を確かにもっていた。
彼女が大人になるにつれて、
「麻里ちゃんは本当に良い子ねえ。将来も楽しみだねえ。」と周囲から言われることが増え、そのたびに麻里は「ありがとうございます。」と笑顔で返していた。
内心では、「はあ。」と賛同するにも否定するにもとれないような生返事をしながらも。

電車に揺られながら、段々と変わっていく景色をぼーっと眺める。
ビルの多い街中から、徐々に田園風景へと切り替わっていく。
「あれからもう一年経つんだっけ。」、麻里は心の中で溜息を吐くようにつぶやく。

去年の秋、金木犀の花が香り始めるころ、結婚を約束にしていた彼に突然別れを告げられた。それは一瞬の出来事で、何が起きたのか頭では理解できなかった。

「麻里が何を望んでいていて、これからどうしたいのか、俺には分からない。」と彼から言われたとき、麻里は脳が別れを拒絶しながらも、妙に納得してしまったのだった。

「だって私、小さい頃から何がしたいとか、どこへ行きたいってなかったんだもん。」
喉まで出かけた言い訳も、終いには腹の底でグルグルと留まったままだった。

そんな過去を思い出しながらスマホを見ようと鞄を開けたとき、うっかり握っていた切符を落としてしまった。ひらひらと落ちていく切符が向かいに座っていた老婦の足元へ落ちていく。

「あら、お嬢さんもこの駅に向かうのね。」と微笑みながら老婦が拾ってくれた切符を麻里は受け取った。
「はい。あ、ありがとうございます。」
普段ならその程度の会釈で終わるのだろうが、麻里は思わず、
「特に、行きたいってほどの場所でもないんですけどね。」と言い放ってしまった。

麻里の突然の言葉に老婦は少々驚いた顔をしたが、
「でも、どこかへは行きたいと思って向かっているんでしょう?それってとても素敵なことではありませんか。」と言った。

そして老婦は麻里の隣に席を移しながら、「この駅ね、私の故郷の町なの。」と話をつづけた。

麻里は思わずはっとする。
「ごめんなさい、私、ぼーっとしてて、行きたくないなんて言うつもりじゃなくて...。」
「いいのよ、全然。私も昔ね、行きたい場所なんてなかったの。この町でずーっと生きていくのかなって思ってたのよ。」
老婦はフフフと笑いながら麻里をみつめる。

麻里は、予想だにしていない会話に面喰いながらも、老婦の言葉が優しく心を溶かしていってくれるような、どこか不思議な感覚に包まれていた。

「あるときね、『あ、このままどこかへ行ってしまいたい』って突然思ったことがあって。おかしいでしょう?それでね、なんにも目的なんてないけれど、街に行く切符を買って、とにかく飛び込むような思いで電車に乗ったの。」

その気持ち分かります、と麻里は心の中でつぶやく。
「そのあと、どこか行きたい場所は見つかったんですか?」と聞くと、
老婦は「ふふ、これがね、たくさんできたのよ。」と話した。

麻里はその言葉に嬉しくなり、何だか体がおだやかな気持ちで満たされていくのを感じていた。
行きたい場所が今は無くとも、どこかへ行くことを繰り返していたら、私にもいつか行きたい場所ができるんだろうか。そうだといいなぁ、とそのとき初めて麻里の心に願望が生まれた。

電車は目的地へと向かう。ガタン、ゴトンとレールの上を揺れながら、景色はうつろいを変えていく。

金色の稲穂が揺れる平野が美しく光り、麻里は窓の外に目をやった。
目的地に着くまで、あと少し。


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