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「みんな」というボトルにされた蓋

大学生だったとき、サークルから追い出されたことが何度かある。卒業が近くなったから「追い出しコンパ」のような待遇を受けたわけではなく、当時の私の言動を咎められて出禁になったということだ。今となってはその処分は私の自業自得であり仕方のないことだと思っている。
ただ、そのときにサークルの長からサシで「〝みんな〟が君に違和感を抱いている」という趣旨のことを言われたのが忘れられない。出禁になるだけでも悲しいことではあるが、それは仕方がない。迷惑をかけた。ただ、〝みんな〟を盾にされたのが個人主義をこじらせた私には辛かった。
私には個人の顔はみえるが、〝みんな〟の顔色はみえない。平たく言えば空気が読めないといってもいいだろう。私が発達障害(自閉症)の正式な診断を受けるのはそれからずっと後、社会人に成ることに失敗してからだ。
そのときに感じたことは私自身にはみえない〝みんな〟がどうやら他の人々にはみえているらしい、ということである。自分ではみえないのだから、他人を鏡にして知るしかない。
例えば「私はみんなからどうやら仲間外れにされている。状況証拠はこれだけある……」といった話を他人にしてみたこともあったが、ポジティブな人たちから「いつもの君の考えすぎだ」「思い過ごしだろう」「聞き間違いじゃないか?」と言われた。なるほど、ひょっとしたら私は認知バイアスに囚われていたり、統合失調症のような被害妄想に駆られているのかもしれない、と当時も思った(私の親戚には妄想を伴う統合失調症の人もいて、自分もこの気配があるのかもしれないと自分で疑っていた)。しかし実際には上記のようなかたちで苦言を呈され、排除を受けたわけである。〝みんな〟の雰囲気を察して出て行かない私に対し、明示的に答え合わせをもらったと言えるだろう。
学生の頃に幾つかのサークルに出入りしてみて、自分は人とうまくやれないことを実感した。それでも、やっていかなくてはならないし、さみしく苦しかった。それを和らげるためのひとつのやり方として、先代に当たる人から継承したサークルを今も続けている。そこでもトラブルはあったし、迷惑をかけた。心ないことをたくさん言ってしまった。申し訳ないし、今まで協力してくれた方々には義理も感謝も感じている(ウソつけ!という人もいるかもしれない)。
そして、そういう幹事の立場に自分がなってみると、「このひと、困ったチャンだな」と思ってしまう人にも出会うわけで、昔の自分自身を思い出してなんともいたたまれなくなる。だから、仮にそういう人を出禁にするとしても、「みんなが」とか「世間が」とかは言いたくない。「法に触れる」とか「私(深草個人)が許せない」とかの方が言い方としてはマシだ。或る意味では、恨まれ役を買うのも幹事の責任だと、思っている。
(1,158字、2023.09.13)

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