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要約の練習から展開の練習へ

この1000字シリーズではよく冒頭に短文投稿を掲げている。というのは、先に掲げた短文の内容を展開(=長い文章に引き伸ばす、あるいは分析して文字数を増やす)するためである。また、もしそれを先に掲げていなければ、書き手である私自身が、文章の主線(おもせん)をどこに置いたらいいか、逸脱したときでもどこに戻したらよいかを確認するためでもある。

ただし、できれば、冒頭の短文投稿に書いてあることだからといって説明を省かずに(サボらずに)、仮に短文投稿がなくても独立して読めるように書いていきたいというのが努力目標である。

若かった頃を思い返してみるに、文学部のレポートや読書会などの発表で私がおこなってきた作業は偏っていた。どういう意味かというと、他人の長い文章を読んで自分の短い文章に置き換えるという要約ばかりやっていたのである。この偏りがもたらす不十分さは大きく2つあった。

第一に、要約と言っても原則を持ってしていたわけではなかったことである。例えば、論証を示す文章であれば、背景・前提・結論といった構造を長い文章は入れ子のように持っている。材料となる文章の性質にもよるが、要約とはこれらをどう扱うかについて一定の方針を持っておこなうべきものだろう。それはときには、前提と結論だけを抜粋すればいいかもしれないし、背景の中でも取捨選択して添えるべきものがあるかもしれない。場合によっては背景も前提も省いて結論だけまず書き並べる(そこからわかるのは材料を書いた人が何かに賛成しているか反対しているかだけだ)ことかもしれない。どのような要約手法が適切かはもちろんそれを持ち出す場所、宛先にもよるのだが、それらに対して私は素人が床屋をやるように無造作であった。とにかく短くなればいいとばかり思ってやっていたのである。

第二に、材料を短くすることはできても、材料の結論の先に延長できる論証を描いたり、材料の読解から短い連想や短い発想(アイデア)を得て、さらにそれを自分の論証として長い文章に変換する練習ができなかったことである。言い換えれば、材料や発想を複数の私自身にも検討可能な部分に分割して、それぞれを吟味する。あるいは私の実力や文章の方向性の観点から、吟味できない部分と吟味できる部分を分割するという訓練をやってこなかったのである。長い文章を短く言い換える、すなわち同じ意味で短い字数の単語や文に置換することもできる必要があるが、その一方で、ひとつの意味のまとまりと思われるものを分割して、本当にひとつにまとめてしまっていいものだったのか検証したり、提示されている課題は意味の内部に壊れた部品や部品同士のつなげ方に誤りがあるがために生じてはいないかと、差分を細かくチェックしていくという作業が、現在の私には絶対量として欠けている。

それが欠けていてなぜ問題かと言えば、それはもちろん、自分自身で長く組織的で有益で気の利いた文章を書こうと思えば、必要に応じて既存の概念を自分の手で分析(分割分解)し、不具合を除去しながら再度組み立てた上で、自分自身の結論を異論反論から守り、適切な前提によって支えきる必要があるからである。これが必要条件としてできた上で、なおかつ文章を適切な背景、つまり読み手が納得し腹落ちし、「今ここで出会いたかった文章だ!」と思えるような背景にその文章をおいてこそ書くにも読むにも存在するにも値する文章であると言えるだろう。

上記2点の課題はインプットとアウトプットの課題にも対応している。すなわち、読んでインプットするといってもすべてを憶えられるわけでもなければすべてが重要なわけでもないし、アウトプットするといってもただボソリと重要だと思うことを格言のように言っても読み手には何もわからないという2つの課題である。これらの課題に共通して必要なのは文章を書く上での目標決定か、少なくとも方向性の軸合わせである。なぜならば、組織的な文章はたったひとつの〝北極星〟──すなわちそこに実際にたどりつくわけではないが、そこを目指さなければならない一点──に向って集中しているべきものだからである。

(1,695字、2023.11.06)



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