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輪廻転生

今日は哲学サークルの例会であった。テーマは輪廻転生だったのだが、肝心なところに話が及んでないというのが第一の感想である。というのも、生まれ変わる前の存在者(前世)と生まれ変わった後の存在者(現世)とがどのようにしてつながっているのか? もっと言えば同一人物、同一の魂の継続だといえるのか?についての言及が無かったからである。

仏教では生は苦であるとされ、輪廻転生についても否定的である。その根拠としてはアートマンの否定がある。輪廻転生を肯定する場合、生まれ変わる前の人物と生まれ変わった後の人物とが同一人物であると言えるための共通点がなければならない。それはアートマンと呼ばれる。しかし、仏教思想では人間の肉体的精神的構成要素を分析列挙した上で、アートマンのように肉体が滅びた後に来世に受け継がれるような実体は存在しないと説く。それはそれで或る程度理解できる論証であるが、深草自身としてはアートマンが無いと言い切れるとは思えていないため、懐疑的であり、不可知論に留まる。

しかし、もし輪廻転生を敢えて論じるとすれば、前世と現世のつながり、現世と来世のつながりがどうなっているのか、〝アートマン〟のような共通点によってつながっているのか異なるのかについて言及しなければならない。例えば、輪廻転生自体は大衆を納得させるためのわかりやすいおとぎ話あるいは方便であり、真実の姿としては我々人類はすべて共通の根を持った同一人物であるといった思想を出す必要である。

また、輪廻転生が実在するかどうかとは別立てで、輪廻転生思想がどのようにリアリティを持って受容され、消費されているのかを論じるのであれば、人々が消費している輪廻転生概念について、どのぐらい整合的であり、どのような動機付けやメカニズムによってそのような超経験的な概念が成り立ちうるのか? を考察してほしかったところではある。

哲学の話には、みえないものが必要である。言い換えれば、みえる存在者や出来事、行為について言及するだけでは不十分である。なぜならば、少なくとも超越的で外在的な概念を必要とする水準まで持ち上げられないと、そもそも思想や論証としてすら俎上(そじょう)に載せて検討することがそもそもできないからである。超越的な概念や用語を意味論的に批判するためには、まずそのような概念や用語が立てられなければならないからである。

そのような独自に立てられた超越概念が最初に意味不明なものであるのは珍しいことではない。そして意味不明であることは論者をしてそれを語ることを躊躇(ためら)わせるものである。だから、それを語るためには真理に対する勇気、特殊な気概が必要なのである。

(1,107字、2023.12.02)

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